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82歳明大・松岡功祐コーチの訴え、大好きな野球に打ち込めるのは「平和あってこそ」戦後80年


「子どもたちが野球に打ち込める環境があることこそが平和ってことじゃないですか」と訴える明大松岡コーチ(撮影・平山連)

東京ドームのそばに立つ「鎮魂の碑」には、戦争で命を落としたプロ野球選手の名が刻まれています。野球殿堂博物館の「戦没野球人」モニュメントには、中等学校野球・大学野球・社会人野球の選手たち。志半ばで野球を諦め、戦地へと赴いた先人が大勢いました。合わせて200を超える個々の人生を想像するだけで、代償の大きさを突きつけられます。ですが、犠牲になった“野球人”は彼らだけではないはずです。日々の暮らしで野球を愛した人々が、どれだけいたことでしょう。戦争末期には、職業野球も、学生野球も、甲子園大会も中止され、「野球の国」たる日本から球音が消えました。それから80年。日本人選手が、かつて銃を向け合ったアメリカへ渡り、世界中の人から応援される時代となりました。野球は、スポーツは、平和だからできる。楽しめる。8月15日は、そんな当たり前に思いをはせる日でもあります。

   ◇    ◇    ◇

明大の松岡功祐コーチ(82)は、戦後80年となる8月15日を前に訴えかけた。

「野球ができるのは当たり前じゃない」

孫ほど年の離れた部員たちへ、自分の経験を惜しみなく伝える日々だ。真っ黒に日焼けした顔で、きびきび動く。とても80歳を超えているとは思えない元気はつらつぶり。グラウンド内外で学生たちと接し、時には野球以外の話題でも盛り上がる。ただ、戦争や終戦前後の話を聞かれることは、まずないという。

「今の子どもたちは全く関心がないように感じます。お父さんやお母さん方も50、60代くらいが大半ですから、話してもらう機会もなかったんでしょう」

松岡さん自身も終戦時は2歳半。戦争体験の記憶は乏しいが、占領期のことは鮮明に覚えている。

「MP(憲兵)が肩で風を切るように歩いていて」

熊本市で育った少年時代。わが物顔で歩く連合軍兵士とは対照的に、食べ物や生活必需品を求めて人々が闇市に群がり、道の脇には何人もの傷痍(しょうい)軍人が物乞いをしていた。赤線地帯では若い女性たちが体を売って日銭を稼ぐ。先行きの見えない未来を懸命に生きようと、誰もが必死だった。

「雨が降ると、闇市の周りが本当に耐えられないほど臭くて大変でした。アメリカの兵隊さんと一緒に歩く女性たちをよく見かけましたよ。子どもながらに、哀れだなと思って」

五感を強く刺激した体験が、敗戦国という現実をまざまざと突きつけた。

ただ、松岡さんの人生にとってかけがえのないものとなる野球との関わりは、日本が戦争に負けた現実が強めてくれた。実家は運送業を営んでおり、米兵から荷物の運搬をよく請け負った。その縁で「兄が野球をやっていたこともあって、アメリカ兵からお下がりでバットやグラブをもらったこともあった」。そのバットとグラブも使いながら、気づけば野球にのめり込んでいた。

「もはや戦後ではない」と日本政府が宣言したのは、1956年(昭31)。松岡さんは中学生になっていた。平和が戻り、豊かさを増していく中、九州学院へ進む。そこで思いがけない経験をした。

熊本県選抜の一員として、初めての海外遠征へ出かけた。パスポートを準備して鹿児島から船で1日がかりで向かった先は、いまだ米国統治下にあった沖縄だった。

「派手な服装をした外国人が街中にいっぱいいて、1ドルで大きなステーキを食べたのをよく覚えてます。外国の文化を強く感じた一方で、グラウンドでは同じ日本の高校生たちと試合をする。不思議な感じでしたね」

占領期の記憶を呼び戻されるような青年期の体験。戦争は、まだ終わっていなかった。

卒業後は明大で活躍。サッポロビールを経て、66年の1次ドラフト1位で大洋(現DeNA)に入団した。11年間の現役生活。引退後はコーチやスカウトを歴任し、多くの若者を育て、またプロに送り込んできた。中国や独立リーグでも教えた。そして今年からまた母校で教えている。

振り返れば、戦後を野球とともに歩んできた。だから、大好きな野球に打ち込めるのは「平和があってこそ」と力を込めて言える。

「世界中で今なお戦争が起きているのを見ると、悲しくなる。人と人とが殺し合うことほど、ばからしいことはない」

部員たちと白球を追いかけながら、今年も終戦の日を迎える。【平山連】

◆松岡功祐(まつおか・こうすけ)1943年(昭18)2月9日、熊本県生まれ。九州学院-明大-サッポロビールを経て、66年1次ドラフト1位で大洋(現DeNA)入団。1年目から遊撃手の定位置をつかみ、123試合に出場。77年現役引退。通算800試合、358安打、3本塁打、77打点、打率2割2分9厘。引退後は大洋でスコアラー、コーチ、スカウトを担当。退団後は明大コーチ、中日2軍コーチ兼寮長などを歴任。今年、11年ぶりに明大コーチに復帰。現役時代は170センチ、76キロ。右投げ右打ち。

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