
<吉田義男さんメモリーズ20>
「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。
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吉田さんは「わたしはタイガースに人生をささげました」といってはばからなかった。選手生活17年、監督として計3度、8シーズンを阪神と歩みながら、球団初の日本一監督になった。名実ともに“吉田義男”はブランドだった。
ときには“キングメーカー”の役回りをすることもあったのは確かだった。次に代が変わっていっても、阪神本社、球団から、外部にいた吉田さんが、なにかと意見を求められるのは、実績からいっても自然の流れだった。
極秘裏にあった密室での会談が複数候補から二者択一になった案件もあった。今思えば、監督の人選について相談を受けた吉田さんが日本人の「外部招聘(しょうへい)」を強く推した記憶はない。自前のチーム作りにこだわったのだ。
吉田さんのもとで数多くの門下生が育って、巣立った。実力の世界とはいえ使う方と使われる側には人間関係が絡むので、さまざまなドラマが交錯した。特に老舗の人気球団だから“情”と“非情”の使い分けも至難だったに違いなかった。
吉田さんは「わたしはわりあいトレードが好きでした」と話した。1975年(昭50)、阪神エースの江夏豊さんと南海江本孟紀さんらで2対4のトレードを成立させた。同世代に生きた南海野村克也監督と直接電話をし合った末の大トレード劇だ。
江夏さんとは確執が生じたようだ。集合時間に遅刻するなどコーチも手をこまねいたし、マスコミが介入して関係をあおった。江夏さんは勝利を挙げた遠征先の監督の部屋にきて泣いたこともあったという。吉田さんは「チームのためのトレード」と譲らなかった。
吉田さんが「阪神を背負って立つ選手になる」といったのは田淵幸一さんだった。プロ入りしたときはスマートだったが、吉田監督になった75年は貫禄がついていたからトレーニングで体を絞らせると、王貞治さんを13年連続でとどまらせた本塁打王を獲得した。
ただ吉田さんは「キャッチャーとしては性格がおおらかすぎました」という。「森(祇晶)、野村(克也)のように打者の裏をかくリードが不得手だった」と早くに一塁転向を実現していれば、さらに打撃を生かすことができたと悔いた。
85年の日本一メンバーには強い思い入れがある。「安芸キャンプで超人的な頑張りをみせた」といったのは掛布雅之さんの存在だった。佐野仙好さんとの三塁手争いを猛ノックで演出した。常に監督候補に挙がっては消えた。「チャンスを与えることはできなかったのでしょうか」ともらしたのが印象的だった。
85年以来の日本一を遂げた岡田彰布さんが、教え子のなかでも特別だったのは、勝負師としての資質を見抜いていたからだろう。オリックス移籍後、阪神に復帰させようと何度も本社に掛け合ったが、なかなか許しが出なかった。
それでも岡田監督の誕生にこだわった。いつも有力視されながらその座につけない現実に「どうして岡田ではあかんのですか?」と訴えた。ただ吉田さんの見極めが急所を突いていたのは、岡田さんが悲願を成就したことで証明された。
吉田さんが「空気が読める男でした」といったのは真弓明信さんだ。85年日本一の大コンバートのキーマンは、内野から外野コンバートを受け入れた。ショート平田勝男さんは「ピッチャーに声をかけるタイミングがよお分かっていましたわ」と持ち上げた。
木戸克彦さんには「バッティングには期待していなかったが、特に優勝した後のリードは安定していました」と評価。中西清起さんには「バックスクリーン3連発ばかりが取り上げられるが、あの巨人戦のポイントは抑えの中西です」と振り返った。91年の生涯を閉じた吉田さんの功績は永遠に受け継がれる。【寺尾博和】