
<吉田義男さんメモリーズ16>
「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。
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吉田さんは花街でも顔利きだった。古都ならではのしきたり、風習が身についた生粋の京都人だから、特に地元に行くと、どこに行っても声を掛けられて一目置かれた。
世間で評判の日本料理屋に入って吉田さんと分かると、板場に立った料理人の顔つきが変わった。星付きの店を出た後「京料理にしてはちょっと繊細さがありませんな」と厳しいこともあった。
ある年、米大ドジャースの名物オーナー、ピーター・オマリー氏が来日した。夫人を伴って京都で観光をするつもりが、ちょうど紅葉の季節と重なって宿泊先のホテルがなかった。
オーナー補佐だったアイク生原さんから、吉田さんに電話が入った。本人は京都・祇園のお茶屋「いまむら」の女将(おかみ)、今村伊都子さんに取り次いで、オマリー夫妻を京都に招いた。
そして、吉田さんの知人の運転手付きの車で京都観光を楽しんだ。特にオマリーさんはステーキの美味しさに驚いたという。それ以来、吉田さんのもとにはドジャースから毎年チケットが届いた。
オマリー家が代々、親日家なのは知られたが、「いまむら」も政官財界では知る人ぞ知る名店。“おいっちゃん”といわれた女将は瀬戸内晴美(寂聴)さんが日本経済新聞が連載した長編小説「京まんだら」のモデルだった。
かつては日本民営鉄道協会のトップも通ったから、近鉄佐伯勇さん、南海川勝伝さん、阪急小林米三さんらが顔を出した。吉田さんは京都に行くと、必ず最後はこの店に立ち寄った。
吉田さんはアルコールが飲めない下戸だ。そのお茶屋に落ち着くと、おいっちゃんが「よっさんは大林組の先代にも、よぉかわいがられましたな」と盛り上げては昔話に花を咲かせた。
阪神は1963年(昭38)に名門デトロイト・タイガースのキャンプ地、米フロリダ州レークランドで球団初の海外キャンプに踏み切った。それが実現したのには伏線があった。
前年62年に毎日新聞社の招待でタイガースが来日したが、甲子園の親善試合が雨天中止になった。そこでオーナーの野田誠三さんが甲陽園の料亭「はり半」にオーナー、GM、シェフィング監督らを招いて宴会をした。
その場にいた吉田さんは「あんなん日本式のパーティは初めてだったでしょうね。大変喜んでくれましたわ。それが翌年(63年)のフロリダキャンプにつながったんです」と振り返った。
その宴席には、当時祇園のお茶屋「みの家」の仲居だったおいっちゃんも接待役に回った。そして逆にタイガースが阪神をフロリダキャンプに招待することを約束するのだった。
日米両国のタイガースは業務提携するなど友好関係を保った。仲介に入ったのが今里純さんという人物だ。吉田さんは「日本プロ野球組織の顧問的存在、大リーグのコミッショナーからも日本唯一のメジャー愛好家と認められた方です」と説明した。
吉田さんは、今里さんとも親しく付き合って、メジャーの情報を収集しては渡米を繰り返した。おいっちゃんが「よっさんは野球の選手やなかっても、名を遂げてはる」と語った。
吉田さんは「京都いうとこは奥が深いんでっせ」といった。いろんな人がうごめいたのだ。【寺尾博和】