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【日本代表】ビエルサ氏ら候補も森保一監督続投…前会長の田嶋幸三氏明かす最速W杯切符の舞台裏


日本サッカー代表は、森保一監督の継続によって、W杯北中米大会への史上最速の出場権を手にしました。森保監督は以前の予選での苦戦を経て、6勝1分という無敗の快進撃を見せ、3試合を残してこの成果を達成しました。田嶋幸三前会長は、日本代表の一体感と彼の経験が重要であると判断し、続投を推進しました。東京五輪代表の兼任監督も務めた経歴を持ち、JFA内部での意見が分かれる中で彼の続投が決定。外部の監督候補もいましたが、田嶋氏は日本の文化や環境に適した人物が必要と考え、日本の戦略と選手の力を最大限に引き出せる森保監督の手腕に期待を寄せました。この決定は、東京五輪世代の活躍を含め、彼の指導スタイルが日本代表の成長に貢献していることを示しています。

日本対バーレーン 試合後、タオルを広げる森保監督(撮影・江口和貴)

日本代表が、史上最速でW杯切符を手にした。過去の最終予選は苦戦続きも、今回は6勝1分け無敗。前回大会で産みの苦しみを味わった森保一監督(56)の続投が奏功した。支持したのは、日本サッカー協会(JFA)前会長の田嶋幸三氏(67=現名誉会長)だ。今だから明かせる秘話、舞台裏を聞いた。【取材・構成=岩田千代巳、木下淳】

森保監督「2度目」のアジア最終予選は、史上最速の圧勝劇となった。前回は黒星発進。1勝2敗に沈んで迎えた第4戦オーストラリア戦は2-1で制したものの、仮に敗れれば「解任」が現実味を帯びたほど苦しんだ。今回は一転、全7戦で24得点2失点の無敗。3試合を残して日本史上最速の北中米行きを決めた。

田嶋氏は「2度、予選を戦った監督はいない。(前回)あれだけ苦労したからこそ、今回の予選は最初から良い形で入れた。予選のことも念頭に、森保監督の続投を考えていた部分はある」と胸中を打ち明けた。

あくまで監督選考プロセスはJFAの技術委員会や理事会の推挙、承認を受ける必要があるが、JFA責任者である田嶋氏の中で、森保監督の続投は約2年4カ月前に頭の片隅にあったという。22年11月開幕のW杯カタール大会1次リーグ初戦でドイツに勝利した時から。

優勝経験国のドイツ、スペインを連破し、決勝トーナメント1回戦ではクロアチアと引き分け(最終的にはPK戦の末に敗戦)。結果も申し分なかった。

続く26年W杯北中米大会に向けて、JFAは後任監督選考に着手していた。当時、日刊スポーツの取材では森保監督のほか、アルゼンチン代表やチリ代表を率いた「奇才」マルセロ・ビエルサ氏(当時67)らも候補に。技術委の内部から、続投と外国人監督の招請で割れていたという情報も漏れ伝わってきていた。

欧州のビッグクラブでプレーする日本人選手が増えてきた状況。ワールドクラスの経験豊富な指揮官が候補に挙がるのは、当然の流れだった。しかし、試合直前にならないと全員がそろわなかったり、長距離移動を伴うアジア予選の過酷さも理解した上で、日本人選手の力を発揮させるためにはどのような人が適任なのか。田嶋氏は常に「日本人、外国人ということではなく、誰がやったら勝つ確率が一番高いのかが大事なこと」と話していた。

結果、W杯ロシア大会でベスト16入りを果たした西野朗監督と同様に、続く22年W杯カタール大会も日本人の森保監督による円滑な意思疎通と一体感が、好成績につながった。森保監督は21年に延期された東京五輪の準備期間から、日本で誰よりも代表のことを知り、考え、見てきた人物だった。

対して、外国人監督が就任していた場合、日本と、日本人を、どれだけ理解してもらえていただろうか。森保体制に「1期」でピリオドを打つのではなく、継続した方が、より選手たちの力を引き出せるのではないか。過去の経験からも田嶋氏は、そう考えていた。

岡田武史副会長、反町隆史技術委員長らとガバナンスに則った形で話し合いを重ね、会長としての考えを伝えて、協会内でも議論が尽くされた末に「森保続投」が決定した。世界を見れば、レーウ監督(ドイツ)やデシャン(フランス)監督ら、母国を優勝に導いた指導者の続投の例も多かった。

◇  ◇  ◇  ◇ 

森保監督が代表監督に就任したのは、W杯ロシア大会後の18年7月だった。その前年10月には東京五輪代表監督も託されている。

JFAでは、日本が世界の頂へ向かう道しるべとなる「ジャバンズ・ウエイ(Japan’s Way)」策定に06年から取り掛かっていた。

田嶋氏は、かねて「自国の監督でないといけない、と決めつけたわけではないけれど、日本のことをよく分かっている人材がいい」との私案を抱いていた。

ハリルホジッチ監督時代には、西野氏と、次のW杯への監督人事で意見を交わした。西野氏は森保監督を一貫して推していた。東京五輪の監督を選ぶ際も「世代交代も含め、次のA代表監督が東京五輪を指揮する方がいい」と意見が一致。兼務を前提に、一足早く森保監督の五輪代表監督就任が決まった。田嶋氏は述懐する。

「西野さんは(広島時代の森保監督と)Jリーグで何度も対戦して、最も手ごわく、最も嫌だった相手監督が森保監督だった、とよく話していた。そこで森保監督に、と。西野さんは監督、選手を見る目がすごくある方なので。東京五輪の監督を定める段階から(候補者として)次のA代表監督も、という話はしていました」

ハリルホジッチ監督と選手の亀裂が電撃解任に発展した時も、森保監督が、前倒しでW杯ロシア大会を指揮するプランも、水面下では挙がっていたという。田嶋氏は反対の立場だった。「やはり森保監督には、次の大会に向けて一からやってほしい。もしも、があれば(結果が出なければ)その先の道が険しくなる」と考え、西野氏に監督就任を要請していた。

西野氏は田嶋氏の切なる要望を受け入れ、技術委員長からA代表の監督へ。わずか2カ月後に開幕が迫るW杯ロシア大会へ向かっていった。

その下馬評は低かった。選出された選手もベテランが多く「おっさんジャパン」とも、やゆされた。ところが、初戦でコロンビアに2-1で「W杯で日本初となる南米勢相手の勝利」を挙げると、セネガルにも「初めてのビハインドから勝ち点」となる2-2の引き分け。1次リーグを1勝1分け1敗で突破し、決勝トーナメント1回戦では、世界トップクラスのベルギーと互角に渡り合った。最後は「ロストフの14秒」と呼ばれた神カウンターを食らったものの、初の8強という新しい景色への扉が、開きかけていた。

田嶋氏と西野氏の間では「次のW杯は森保監督」と話していたが、好結果だったことから、協会内では西野氏の続投論も浮上した。田嶋氏が敬意を込めて西野氏に意思確認をすると、西野氏は即答した。

「次の監督は森保って話していたじゃないか」

18年7月、東京五輪代表兼A代表の森保監督が誕生した。

◇  ◇  ◇  ◇ 

新型コロナウイルスの感染拡大で東京五輪はまさかの1年延期となった。21年夏にスライド。そのメンバーには、今の日本の核となっている三笘薫、堂安律、久保建英、冨安健洋、板倉滉らが名を連ねていた。オーバーエージ(OA)枠でも、現主将の遠藤航らがフル回転した。

メダルにこそ届かなかったが、中2日の過酷な日程の中で9年ぶりの4強という成績を残した。

その直後。前回カタール大会のW杯アジア最終予選は、東京五輪のわずか1カ月後に始まった。全身全霊の勝負から息つく間もなく始まり、難しい状況に陥るのは必然でもあった。

不安は的中する。初戦でオマーンに敗れ、第3戦でもサウジアラビアに敗れて負けが先行。3戦目にしてW杯切符のデッドラインとなりそうな2敗目を喫していた。

森保監督も“進退伺”を協会に託したほどだった。

絶体絶命の第4戦オーストラリア戦で、日本は2-1の劇的勝利を収めた。以降は立ち直り、どん底から一転、快進撃でカタール切符を手に入れた。

田嶋氏は当時のオーストラリア戦をこう振り返る。

「あそこまでいくと、開き直り、という言葉は使いたくないけれど、自分も辞めなくてはいけなくなる、とか、そんなことすら思わなくなっていた。信じていれば、浅野のクロスが(ラッキーな形で)入ってくれたり。勝つな、と思った」と今だからの本音も出た。

「前回の苦しみは、やはり五輪と近づいてしまったことが大きかった。まさか延期になるとは想像できなかったし。その意味では、すごく自分としては反省がある」

そう言いながらも、東京五輪メンバーがW杯カタール大会の主力としてピッチに立ったことに、確かな手応えも感じていた。

「東京五輪でスペインと対戦して、日本は良かったと思う。スペインには、ペドリはじめ、カタール大会の代表が数多くいた。その選手たちとカタール大会で戦い、借りを返せた。その意味でも、彼(森保監督)にもう1度やってもらった価値はあった。あの苦しさを味わった森保監督だからこそ、あの時、勝つことができたんだろうなと思います」

東京五輪、W杯カタール大会、そして今回の北中米大会アジア最終予選。8年前から、世代交代と日本代表の将来を見据えた森保監督の「継続」が、実を結んだ。

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