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懐かしエイプリルフール企画 「ロードボンバー」|レース参戦、順位はどうなった?#8(最終章)


1977年、4月のエイプリルフール。バイク誌モト・ライダーは、一つの嘘をついた。「ヤマハから新型カフェレーサーが登場する」、ロードボンバー事件である。これをきっかけに編集部では、実際にそのカフェレーサーの制作を決断し、連載企画とした。前回#7では鈴鹿耐久レース参戦決定までの経緯を報告。モト・ライダーの鈴木編集長は、山田 純(当連載の筆者)のペアライダーに「堀ひろこ」さんの起用を提案。しかしレースではマシンの押しかけ(エンジン始動)が必須である。果たして彼女はXT500のエンジンをプッシュスタートできたのか!? 今回はその続きをお伝えし全8回に渡った連載を締めるとしよう。




テキスト⚫️山田 純(YAMADA Jun) 編集⚫️近田 茂(CHIKATA Shigeru)

エイプリルフールのタイミングで公表されたヤマハ・XT-S 500「ロードボンバー」(1977年4月号に掲載)

・前回の記事を簡単に振り返っておこう。

 バイクの扱いに慣れている者(体力的に有利な男)でさえも、ロードボンバーの押しかけは、そう簡単な物ではなかった。スリムで華奢な堀ひろこさんが、500cc単気筒に押し勝ってエンジンを始動できるのか!?


 ロードボンバーの製作者である長さん(島 英彦)は、「レース中にいつ何処で止まっても一人でエンジンを掛けられなければペアライダーとしては認められない」と明言していたのである。(以上・編集部注釈)

非力なノーマルエンジンでの大健闘に誰もが驚かされた。

 鈴鹿耐久参戦が決まってからも、その準備に専念できるわけではなかった。ロードボンバー担当と言うことで、いくつかの仕事は分担されたが、通常の編集業務は平行して普通に仕事をこなしていく必要があったからだ。


 しかし、逆に好都合な良い面もあった。モト・ライダーでは主力企画として、いつも数台を集めた比較テストを行っていた。それは谷田部の日本自動車研究所、筑波サーキット、そしてツーリングの3本をこなして徹底的に走り回っていたからだ。つまり筑波サーキットで占有走行できる機会に恵まれていた。


 


 記憶が定かではないのだが、その時も400ccか750ccだったかの4、5台を筑波サーキットに持ち込んでいた。そのテストライダーの中にゲストとしてひろ子(堀ひろ子)もいた。


 私は、ロードボンバーのテストに専念していたが、1台しかない貴重なバイクだから、抑えて走っていた。それでも、1分14秒くらのラップタイムは簡単に出た。エンジンはXT500 そのもの。完全なノーマルである。優れた操縦性が発揮できるそのポテンシャルの高さに改めて驚かされてしまった。


 


 ほかの企画の撮影も一段落したみたいだったので、ひろ子に「ちょっとこれ(ロードボンバー)乗ってみる?」と聞くと、「えっ、いいの? 乗る乗る」(笑)ときた。


 マルチ・エンジンのバイクとは異なるビッグシングルのシフトタイミングやエンジン特性に最初は戸惑っていたが、すぐに気持ち良さそうに走れるようになり、ピットに戻ってくると、「ヘェーッ、面白いねコレ!」と嬉しそう。


 


 それなら、と僕が「ひろ子、コレ押掛けでエンジン掛けられる?」と聞くと、「何かコツあるの?」と聞いてきたので、「普通のバイクより倍くらい押してから飛び乗りながらクラッチミートしないと掛からないよ」とアドバイス。


 「フーンッ、そうなの?」とかいいながら僕からロードボンバーを受け取ると、いとも簡単に押し掛けでエンジンを掛けて走って行った。長さんが、「やるね、あの子」とびっくりした顔をして、これなら乗せてもいいよ、とうなづいていた。


 


 舞台は変わって鈴鹿サーキット。復活の鈴鹿6時間耐久レース開催の地である。とても暑かった事を覚えている。鈴鹿(サーキット)は、ホームストレートが第1コーナーに向かって、思いのほかに下っている。だから、ピットとその裏側の歩行スペースには、段差が連なるほどだった。


 


 ひろ子は誰に言われたわけでもないのに、そのピット裏のパドッスペースで、下り坂になっている1コーナーに向かってではなく、登り坂になる最終コーナー側に向かって、黙々と押し掛けの練習をしていた。やらなくちゃいけないことを、きちんと理解していたのだ。




 耐久レース(6時間だが)の本番でロードボンバーは、何のトラブルもなく、淡々と進んでいく。僕らのペースは決して速くはない。直線では大きなマシンに先行されてしまうが、コーナーでは多くの相手を抜き去ることができ、ひろ子もいいペースで順調に走っていく。


 


 当時は、ピット裏のパドックにエアコンの効いた部屋などない。ピットの端に子供用のプールを置き、水を張って走り終わると革ツナギを脱いで飛び込み、ほてりきった体を休める。


 女性のひろ子は、流石にそんなことはできず、走行が終わるとトランポのバンのクーラーを効かせて涼んでいた。これでは疲れは取れないはずだが、弱音は一切吐かなかった。


 


 そして、我々とロードボンバーは、6時間を無事走り終え、総合18位に入ることに成功。非力で転けられない制約の中、その成績は十分賞賛されるものだった。女性ライダーの参戦で敢闘賞の栄誉にも輝いた。


 


 もちろん、誌面を飾る写真は山ほど撮影、記事のネタもあふれんばかりあったから、創刊したばかりのバイク雑誌としては大きな成果だったといえる。(書き手:山田 純)

連載を振り返えって、編集部より。

1978年の鈴鹿8耐で好成績をおさめた「シマ498ロードボンバー」

 エイプリルフールの時期になると今も思い出されるロードボンバー登場のインパクトは実に大きなものだった。ライトウエイトなビッグシングル・スポーツの提案は、ブームを駆け上り出したバイク市場と業界に貴重な一石を投じたのである。


 


 余談ながらロードボンバーには続きがある。翌年の鈴鹿8時間耐久には、競技用にチューニングされて黒塗りに変身した「シマ498ロードボンバー」で参戦。石井康夫/山田純ペアのライディングで総合8位、プロト・クラス6位と言う見事な結果を残した。おおかたの予想を超える好成績に、業界は再び騒然となったのである。


 


 改めて、モト・ライダー創刊時の編集会議で立案された企画と、それに応えて見事な「ロードボンバー」を創り上げてくれた「島 英彦」氏、そして諦める事なく企画を遂行した鈴木脩巳編集長の功績は実に偉大なものだった。関係者はもちろんの事、誌面を通して話題を共有した大勢のファンは、今でもエイプリルフールと共に、あの黄色い「ロードボンバー」を思い起こしてくれる事だろう。



ロード・ボンバー、鈴鹿6時間耐久レースに挑戦(モトライダー誌1977年8月号から抜粋)







6月5日 鈴鹿サーキット




ロード・ボンバー  ご存知のとおり、わが編集部のオリジナル・マシン。そのボンバーが鈴鹿サーキットで2分45秒8をたたき出し、しかも6時間耐久レースをノン・トラブルで走り切った。とくに女性ライダーの堀ひろ子が片方のライディングを受け持ち、その華麗?なコーナリングは観衆とほかの出場ライダーを魅了したのだった。これは、ボンバーの鈴鹿耐久レース出場のフル・インサイド・レポート。




⚫️堀ひろ子/山田純コンビで完走、総合18位!




 金曜の練習日、堀ひろ子は2分55秒、山田純は2分50秒台で走った。ご存知のとおり、鈴鹿サーキットはたいへんむずかしいコースだ。鈴鹿を速く走れるライダーなら、どこでも通用する。そのテクニカルな鈴鹿で、楽に3分を切ってスイスイ走れた実力はたいしたものだ。


 しかも、堀ひろ子はパドックののぼり坂を使い、XT-500で“押しがけ”の練習もやっていた。これは当初から製作者の島英彦氏が懸念していたことで、「押しがけに失敗してエンジンがかからなかったら、その場でリタイアするぞ」といい切っていたもの。ひろ子はパドックで、最終コーナー側に向かって押しがけし、2回成功、3回目は力つきた、というくらい必死に練習したという。


 大の男でもXT-500を押しがけすることはむずかしい。ひろ子本人も鈴鹿へくるまでは不安をつのらせていただけに、押しがけの練習に成功した自信は「もしかしたら鈴鹿で散る……」なんて青い顔をしていた本人とともに、島氏をして「こんなことはだれもやらないことだよ、たいしたものだ」と手離しの喜びよう。




⚫️最初からの予定だった“レース出場”




 ロード・ボンバーで<鈴鹿6時間耐久レース>に出場しようと決めたのは、ことしの2月が3月ごろだった。つまり、本誌にロード・ボンバーを“発表”した時点だ。


 だが、島氏はその計画にあまり乗り気ではなかった。


 なにしろ、ボンバーはエンジンを除いてなにからなにまでゼロから作り上げた世界で1台しかないプロトタイプであり、マシンの完成度はその後の開発度合いによるわけだ。熟成の過程でどんな手直しが必要になるかもしれないのに、その段階でレース出場ウンヌンといっても、島氏としてはうかつに「OK」などといえなかったろう。そういう意味では、まったく無謀な構想に違いない。


 いうまでもなく、レースはマシンにとって最も過酷なテスト舞台であり、とくに今回は6時間もぶっつづけに走る耐久レース。しかも、ロードスポーツのプロトとして作ったマシンを走らせるのである。フレームの剛性は充分か、あるいは折損しないか、操安性はどうか—といったいろいろな課題がある。また、たとえ走ったとしても、ぶざまな“走り”を見せるだけだったら、かえってイメージ・ダウンにつながるかもしれない。


 しかし、この耐久レース出場は、ロード・ボンバーの製作意図の延長線上にあるものだ。つまり、ボンバーは、現代のマルチ全盛(ロードスポーツ)の風潮に対するアンチ・テーゼとして、ビッグ・シングルのロードスポーツが復活してもいいじゃないか、ということで始まった計画である。さらに、ロードスポーツはロードレースで走れるくらいのポテンシャルを秘めていなければ、真のロードスポーツ・モデルと認めがたい。という偏見の持ち主である本誌にとって、レース参加は必然ともいえた。


 この耐久レースにロード・ボンバーが完走したら、ニュー・ゼネレーションのビッグ・シングルになりうるし、そのネライをさらにアピールさせるために女性ライダーを起用しよう−と、計画はどんどん先行していく。


 これに対し、島氏は内心は「なに、イケるよ」と自信を持っていたらしいが、やはりレースとなるとなにがどうなるか予測がつかない。とくに女性ライダーでいくということについては、それなりに心配をしていたようだ。


 その後、ロード・ボンバーは月に1度くらいのペースで、筑波サーキットと谷田部でテストを重ね、マシンのデベロップメントがつづけられた。その内容は、島氏の連載レポートにあるとおりで、最近では筑波で1分12秒台を出すまでに玉成されてきた。このタイムは125ccクラスのロードレーサーに勝るとも劣らないのだ。


 むろん、鈴鹿をまだ1度も走ったことはないし、サーキットを6時間連続して走ったこともないので、マシン、ライダーとも依然として不安な要素は残っていた。ライダーの問題は、当初は堀ひろ子ともうひとりの女性コンビ、との構想だった。が、いきなり耐久レースに女性ふたりで出場させるのは無理だ、とそれを断念。編集部の山田純を堀ひろ子と組ませて出場することになった。


 また、エンジンのチューンをするかどうかの問題は、いまの時点でこのエンジンのチューンアップ・キットがまったくないのと、それをやる手間、時間的なリミットからいって間に合う可能性がないため、これもあきらめた。1回、圧縮漏れのためオーバーホールしただけである。このたかだか30ps/5800rpmの非力なパワーにもかかわらず、筑波で1分12秒大のタイムをマークするのだ。耐久レースでもあるし、“プロダクションのプロト”ということで、まったくノーマルのままでいくことに決定。




⚫️予選は2分48秒9で24番手




 6月4日、快晴。午前9時から車検が始まった。


 じつはロード・ボンバーは、プロダクション部門にエントリーしていた。だが、マシンの内容はプロトなので当然、賞典外のオープン参加になる腹づもりでもあった。しかし、「新たにプロト部門の参加のワク内に認める」という主催者のイキな計らいで、わがボンバーは賞典の対象となる公式エントリーということになった。たとえ、入賞の望みはほとんどないにせよ、“可能性”としてでもあれば、やはり気分も違ってくる。


 第1回めの公式予選では、まず山田純がボンバーを駆る。2分50秒−49秒−48秒と、1周ごとにタイムを短縮していく。7周したうちのベスト・ラップは2分48秒9。コースに慣れてきたのだろう。練習では50秒台だった。


 それにしても、ストレートおそいこと。ドコドコドコ……と、低く頼りない音を発しながら、最終コーナーを駆けおりてくる。その左右を、TZ群がカン高い排気音を響かせながらビンビン抜いていく。だが、第1コーナーから第2/第3コーナー、さらにS字まではそれらのレーシング・マシンにピッタリついて走っている。ばあいによっては、間隔をつめるくらいだ。つまり、コーナリング・スピードはそれらレーサーと同等なのである。


 ストレートのエンジン回転は6100rpm。つまり、165km/hほどというわけだがら、当然ギヤ比が合っていない。島氏はトランスミッションのギヤ比を変えたいなどと、かなわぬ望みをいっていたが、いかんせんこのギヤ比では、鈴鹿のようにコーナーが多く、かなりエレベーションのあるところではどうしようもない。10時30分までの第1回予選では、出走40台中、23番めのタイムだった。


 午後0時20分からの第2回めの公式予選では、いよいよ堀ひろ子が練習を兼ねて走った。


 ピット前、一発で押しがけを決め、ゆっくりスタートしていく。1周まわってメインスタンド前に戻ってきた時には、なぜか6〜7台のダンゴのまん中。いかにも“こわい”といった感じで背後をうかがいながら走る。2〜3周とようやく“ひとり”で走れるようになってから、3分を切り始めたが、マシンとコースに慣れるのが主眼なので慎重。6周したうちのベストは2分58秒だった。


 2回目のプラクティスの結果、<39>山田純/堀ひろ子組は24番めのポジションを獲得した。


 ボンバーのカテゴリーであるプロトタイプは、エグリ・カワサキの<1>加藤昇平/福井才二組が2分32秒9で総合2番手、<22>長谷敏之/月木博康組のカワサキZ750改が2分38秒1で、総合では10番手というところ。プロトはこの2車とボンバーの3台だけだが、あまりにもタイムが離れすぎていて話にならない。そんなわけで、たとえクラスにしても“入賞”などまったく考えられず、ボンバー・チームの脳裏にあるのはあくまで完走だけ−−。


 その晩、レース作戦を打ち合わせる。


 レギュレーションでは、ひとりのライダーが2時間以上走行してはならない、となっている。そこで、純とひろ子のローテーションを下記のようにした。




スタート     ライダー


AM 10:30〜11:30  山田 純 ガソリン補給


    PM 0:30 山田 純 ガソリン補給


PM 0:30〜1:30 堀ひろ子 ガソリン補給


PM 1:30〜2:50 山田 純 ガソリン補給


PM2:50〜3:30 堀ひろ子 ガソリン補給


PM3:30〜4:30   山田 純/ゴール




 耐久レースの重要なポイントは燃料給油だ。ボンバーはこれまでのサーキット・ランで、17〜22km/ℓの燃費を記録している。だから、ガソリン・タンクの容量は12ℓと少ないにもかかわらず、204〜264kmは走れる。鈴鹿サーキットは1周6kmだから、34〜44周は走りきれるわけだ。1周を2分50秒で走ると、1時間36分〜2時間は走れることになる。そこで、充分な余裕を見込んで、最初のガス補給は1時間20分めに行うことにした。そして、その後はライダー交代時に給油も合わせて行えばよい。


 ピット要員は島英彦氏と本誌の小野里誠のふたり。計時は丸山野俊一、飛び入りアドバイザーは須田高政氏。




⚫️スタート直前にトラブル発見!




 6月5日、快晴。朝から、真夏を思わせるピーカン。これでは、日中は相当に暑くなりそうだ。


 パドックは、どの出場チームも忙しく動きまわっていて騒然としている。


むろん、トップを狙うチームはピリピリしているが、プロダクション・モトの多い耐久レースだけに、なんとなく和気あいあい、レースを楽しもうといったムードも感じられる。


 わがロード・ボンバーの24番ピットは、全員なにもすることがなく、ただウロウロしているだけ。ひろ子は食欲がなく、朝食はコーヒーとパンひと切れだけという。


 なにしろ、わがモト・ライダー・チームは実際にこうした耐久レースに出場した経験がまったくない。島氏や純にしても何年ぶりかのレースだ。応援に駆けつけてくれたドクター須田も一緒になって、落ち着かない妙な気持でスタートの時が近づくのを待っていた。


 突然、写真を撮っていた編集部の近田茂が叫んだ。「あれ、エアが抜けている」。フレームにエアを充填、クラックが生ずるかどうかチェックするために取りつけていたプレッシャー・ゲージの針が、ゼロを指している。ムム、フレームにクラックでもはいったのか? みんなドキッ。


 島メカニックはフレームをひととおりチェックして、「エア・バルブからの漏れだろう」とふたたびエアを注入。


 10時10分、いよいよコースイン。1stライダーの山田純がボンバーにまたがり、スタンド前を2〜3周ウォーミングアップ。その後、コースを1周走ってスタート位置にマシンを並べる。24番めのポジションは、ちょうどメインスタンドの正面。スタート・シグナル塔のそばだ。


 ル・マン式スタートなので、マシンはコースに45°の角度で並べる。ボンバーのかたわらでマシンを保持する役は島氏。選手紹介のセレモニーでは、派手に「ただひとりの女性ライダー」を強調された堀ひろ子に、スタンド席からひときわ高い歓声と拍手が贈られる。


 スタート時間は10分遅れ、10時40分と変更された。


 スタート2分前、島氏がロード・ボンバーをバックさせ、ピストン位置を上死点に持っていき、ギヤを2ndに入れる。この時点で、ボンバーの積算計は1432km。


 1分前、55秒、50秒……とスタート時刻が迫る。スタンドもピットもシーンと静まり返る。それまで座り込んでいた山田純が立ち上がり、ヘルメットの留め具を点検。


 管制塔の屋上にいたジーンズのお嬢さんが国旗を振りおろし、同時にスタート・シグナルも「GO」!


 スターティング・サークルにいたライダーたちがいっせいにマシンに駆け寄る。山田純は落ちついてボンバーのハンドルを握り、ゆっくりとした動作で推しがけをする。エンジンに無事に“火”がついたようで、15〜16番手のスタート。その後方から、もっと多くのマシンが入り乱れてスタートしていく。ル・マン式の華麗なシーンだ。


 1周め、トップは<3>木山のCB550改、2位は<37>徳野のカワサキZ650、3位は<1>加藤のエグリ・カワサキ。<39>ボンバーは19位くらいで最終コーナーを抜けてきた。


 2周め、2台に抜かれて21位になる。その後、そのポジションをキープ。30分経過した11周めに、<3>CB550改、<5>TZ550(坂本裕介)、<1>カワサキにラップされる。


 この時点のポジションは20位だ。2周め以降のラップ・タイムは、2分48〜49秒とまったく安定している。


 スタートの興奮が薄れたピットでは、手持ちぶさたの メンバーがコースやスタンドへと散っていき、計時係の丸山野とヘルパー、毎回サインボードで純と“会話”している島チーフ・メカとピットマンの小野里を除いてはガランとしたふん囲気。


 そのなかで、ペア・ライダーの堀ひろ子がひとり浮かない顔でマットレスの上にひっくり返っている。やはり、“待つ身”は、なんとなくヘンな気分なのだろう。むしろ、1度でも走ってしまえば気分が落ちつくのかもしれない。




⚫️ひろ子快調、2分51秒7をマーク。




 15周めごろまで、2分48〜49秒でコンスタントに走っていたロード・ボンバーは、16周めから一段とペースアップ。2分46〜47秒で周回し始める。1時間経過時点で22周を走行。トップは24周だから2ラップされている。ポジションは19位。


 さらに25周めからはコンスタントに46秒台にはいるようになり、ついに28周め、今回のレースでの最高タイム、2分45秒8をマークした。予選タイムより3秒早い。


 そして、12時2分、純は29周めにピットインしてきた。まずガソリン10ℓを補給し、オイル量のチェック、チェーンへのオイル塗布−−といった作業を行う。


 そこで、シート・ストッパーのステーが折損していることがわかった。フレームのエア抜けの原因は、この部分にクラックがはいったためなのだ。だが、シートが多少ぐらつくぐらいで走行には特別、支障はない。ガムテープをシート・ストッパーとパイプ、シートとタンクなどに巻きつけ、シートがはずれないよう応急処置する。


 当チームのレース方針は、「確実に、まちがいなく」ということなので、ピット作業もあわてず、ゆっくり確実に行った。そうしたことで、ピット作業に要した時間は4分21秒とたっぷりすぎるほど! 山田純は全身汗びっしょりという状態だが、心身ともに元気いっぱい。いいペースで周回しているので、疲れは感じないらしい。


 12時6分、水とジュースを補給した純は、ふたたびロード・ボンバーにまたがり、ピットをあとにしていった。かたや、堀ひろ子は40分後に向けてピットで準備体操。


 2度めのピットインは12時38分、2時間のタイムリミットぎりぎりだ。周回数は40周。これまでの走行距離はトリップによると242km。2時間を終えて順位は21位。


 ガスを3ℓ補給、チェーン・オイルを塗ると、いよいよひろ子の出番だ。ノービス・ライダーを表す白いゼッケンを背中にぬいつけた皮つなぎに身をかため、緊張からやや白い顔のひろ子に、島チーフ・メカが「気楽に、ゆっくりいこう」と声をかける。「ウン」とうなずいて作業の終わるのを待つひろ子。


 あせらない、といっても、やはりあわただしいピット作業を1分6秒で終え、堀ひろ子が押しがけの態勢にはいる。5、6歩、駆け足でマシンを押し、パッとシートに腰を落とすと同時にクラッチをつなぐ。ロード・ボンバーは、タッタッ……とかんたんに指導した。思わず、見守るピット陣から「よかった」というため息が漏れる。


 ピットロードをくだり、第1コーナーに消えていくボンバー。つぎの41周めはやけに長く感じたが、それでも3分5秒ほどでピット前ストレートに戻ってきた。41〜43周と3分2秒台だったが、44周めは2分58秒8、45周めは2分55秒0と一気にタイムを縮めていく。


 以後、52〜56秒あたりで走っていた堀ひろ子は、52週に2分53秒8をマークすると、つぎの53周め、ついに2分51秒5というタイムをたたきだした。島チーフ・メカは「信じられん!?」といった顔つきで、あわててサインボードにタイムを書き入れる。以後のひろ子は、2分55〜56秒でコンスタントに走るようになった。


 いっぽう、2時間フルに走った山田純は、さすがに疲れた様子で、バーミューダ・パンツにはきかえて、マットレスに横たわっている。「ウデが上がったろう?」、「いや、ウデが上がってもタンクに寝れば走れる」との会話。


 13時41分、61周めに堀ひろ子がピットイン。純にバトンタッチ。6時間レースの半分を消化したことになる。走行距離は370km(ひろ子分は128km)、順位は23位だ。


 このころからやや風が強くなってきた(南東、風速3.2m/s)。ストレートでかせげないロード・ボンバーにとって、向かい風はニガ手。さらにスピードが落ちる。


 マシンからおりたひろ子は、満足のいく走りができたのか、上気した顔でうれしそうに「毎回、ピットサインを出してくれるんで、うれしかったわ」とか、「オーバーペースでコーナーに突っ込むと、フロントがよれるみたい」などとしゃべりまくる。「あたりまえだよ、コーナーにはゆっくりはいって、早く出るの」と島チーフ・メカ。


 いったん走ってしまうと、気がラクになったせいか、朝から食欲がないといっていたひろ子は、急におなかが減ったようだ。備えつけのパンやオニギリに飛びつく。




⚫️6時間で122周(732.5km)を走破、敢闘賞!




 プロト部門の他車はどうか。優勝候補の1台だった。<1>エグリ・カワサキは、序盤からマシン・トラブルに悩み、ピットに止まっている時間が長い。それでも2時間めの順位は28位、3時間めにはわがロード・ボンバーのすぐあと、23位まで浮上してきた。が、再度トラブルが起き、4時間めになってもボンバーより1週遅れの81周。


 つまり、ボンバーがクラス2位ということ。クラス1位の<22>カワサキZ750改は、総合7位をキープしている。


 14時40分、ロード・ボンバーの4時間めの順位は総合19位。純は2分49〜50秒でたんたんと周回している。が、彼にはこの時間が最もきつかったようだ。最初の2時間連続走行がきいてきたらしい。ラップタイムも落ちている。72周から78周まで2分50秒台、79周から2分49秒台になったが、83周からふたたび2分50〜51秒にダウン。


 15時ジャスト、88周を走って、いかにも疲れたという感じで純がピットインしてきた。シートまわりにさらにガムテープをはりつけ、ひろ子のライディングに替わる。乗れているひろ子は喜喜とした表情でコースイン。


 純は右の二の腕を痛そうに押えている。アクセルをあけている姿勢を長くつづけていたせいだ。編集部の尾藤が即席のマッサージ師になって純のからだをもむ。というより、純の悲鳴を聞いていると、痛めつけているといった表現のほうが正確かもしれない。


 純の感想は、「マシン、人間ともタレてきた」。メインスタンド前の直線で、6000rpmまわらなくなってきているという。また、タイヤが減ってきて、コーナリング・スピードも稼げなくなった、ともいう。いっぽう、ひろ子は4、5周め(92周)あたりから3分を切り、2分57〜58秒台で周回している。さらに96周めには2分53秒7と依然、快調なペース。


 15時40分、101周をクリアーした堀ひろ子がピットに戻ってくる。4ℓのガス・チャージ後、今度は山田純がロード・ボンバーを駆ってピット・オフ。これまでの走行距離は612km、ガソリン消費量30ℓ、燃費率は約20.4km/ℓだ。(これがエコノミー・ランだったらトップ?)


 あとは純がゴールまで走る予定で、ひろ子の出番はこれでおしまい。だが、彼女は「まだ走りたりないわ、チェッカーはわたしに乗らせて……」といっている。


 5時間めの順位は、上位陣のリタイアで18位に繰り上がる。クラスでは1


エグリ・カワサキに抜かれてしまい、3位。


 純は、2分50〜51秒のタイムで、無理をしないで走る。が、16時ごろ、ボンバーの背後に迫ってきた<40>ホンダ・ホークⅡ(外谷悦男/東金育男組)に抜かれると、ふたたびハッスルして逆にホークⅡを追いまわす。ストレートで離されても、第3コーナーでピッタリ背後につき、S字でスキをうかがって前に出ようとするが、もうすこしのところで届かない。逆バンクをすぎてのぼりにかかると、逆に離されてしまう−というパターン。この2車のバトルは7〜8周つづき、その間にタイムも2分48秒台にアップ。しかし、直線でジリジリとホークⅡ(総合15位にはいる)に差をつけられ、純も追撃をあきらめる。


 16時27分、純が予定外のピットイン。島チーフ・メカが緊張して身構える。だが、その理由はひろ子に最後を走らせてやろう−という思いやりからだった。


 ひろ子は楽しげに走る。そして、16時42分、138周を走ったトップの<3>


木山賢悟/有馬通正組にチェッカー旗が振られ、6時間におよんだドラマはエンディング。


 つぎつぎにゴールしていく各マシンに対し、それぞれのピットから歓声が上がるなか、わがロード・ボンバーもフィニッシュ・ラインをかすめた。ピットに戻ってきたひろ子とロード・ボンバーを囲んで、たがいに健闘をねぎらい合うチームの面めん。


 ともあれ、完走できたことだけで充分なのに、総合18位にはいれたことは予想以上のものだった。このすばらしい思い出は、山田純、堀ひろ子、島英彦、そしてわれわれの胸の中に永遠に残るであろう。しかも、女性ライダーのチームが完走したということで、特別に“敢闘賞”が授与され、喜びもひとしおだった。


 なお、通算の燃費率は約21.1km/ℓ(ガス35ℓ)だった。

ロードボンバーを制作した “長さん” こと島 英彦 氏。(2003年ヤマハSRのイベント会場にて)
ロードボンバーを乗りこなした 堀ひろ子 さん。(1983年頃ひろこのツーリングにて)


⚫️著者プロフィール

 アメリカから帰国後、少しかじったレースは止めて普通の仕事をしようとしていたところにやって来たのが、ビッグバイク誌で一緒に仕事をしていた小野里 眞くんだった。「これから僕のいる会社でバイク雑誌を作るんで、一緒にやらない?どうせ暇してんだろうから」と連れて行かれたのが、三栄書房だった。編集長は、鈴木脩巳社長が兼任していた。


 それがモト・ライダー誌と関わるキッカケになった。

山田 純(ヤマダ ジュン)


東京都在住


1950年1月生まれ 70歳


20歳の時単身渡米 AMAロードレースに参戦。


帰国後MCFAJジュニア350チャンピオン獲得。


その後バイク雑誌の編集、編集長歴任後、フリーランスへ。


現在BMW Japan公認ライダートレーニング・インストラクター 兼ツーリングライダー。

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