今から42年も前のお話である。
三栄書房刊モト・ライダーというバイク専門誌があった。1976年10月号創刊、当初の編集部員は全員20代。
若いエネルギーに満ち溢れ、とりわけアクティブな新雑誌としてハートの熱い読者にも支えられ人気は順調に推移。
そんな中、業界を震撼させる出来事が起きた。それが「ロードボンバー事件」である。
事件というと大げさすぎるかもしれないが、その背景はこうだ。モト・ライダー創刊前に発案され、水面下で進行していたカフェレーサーにまつわる編集企画が発端。「造ってしまおうか!」初代、鈴木脩巳編集長の声。
やがて企画案は醸成され、1977年4月号であたかも「ヤマハから新型カフェレーサーが登場する!」 というあたかもスクープ記事であるかのように全貌を披露した。「これは4月1日、エイプリルフール」の文字を小さく添えて。
■ヤマハ XT-S 500ロード・ボンバー
ロードボンバーに、深く関わった山田 純さんが当時を振り返る
モト・ライダー誌4月1日発行(3月27日発売号)のカラーグラビアを飾った「ロードボンバー」は、私たちの想像をはるかに超える反響と影響を、あちらこちらに与えることになった。
何しろ、この記事を見た多くの読者から、全国各地のヤマハの販売店に「発売はいつ?」「価格はいくら?」という問い合わせが殺到したからだ。
その話は、当然のごとくヤマハ本社にまで及ぶことになり、大騒ぎになってしまうことになった。
記事中には、小さく「これは4月1日、エイプリルフール」と記されていたのだが、誰もそれを信じてはくれなかった。
誌面を見た誰もが驚くほど「ロードボンバー」は、軽く、コンパクトでスリム、扱いやすそうなビッグ・シングル・ロードスポーツだった。
この「ロードボンバー」というネーミングは、私がつけた。理由は、とてもシンプルだった。500ccビッグシングルの大きく強い爆発感、鼓動感が、走る爆弾(Bomb)をイメージさせたからだ。もちろん私は、この時点で「ロードボンバー」の実車に接していないし、走らせてもいなかった。
しかし私は、シングル、つまり単気筒エンジンを搭載するバイクの豊かなスポーツ性を知っていた。二輪免許を取得して購入した最初のバイクがトライアンフ・タイガーカブ200だったし、2台目がパリラGS(グランスポーツ)175だったからだ。
1970年以前のスポーツ車といえば、ホンダCB72、77 ヤマハYDS2、3といった並列2気筒マシンだった。大きなものでは、トライアンフ・ボンネビル、BSA650など、並列2気筒のそれらに比べ、トラ・カブ200もパリラ175も、はるかに非力だったが、軽くスリムな車体のおかげで、操縦性が良くコーナリングが抜群で十分に速かった。
バイクの醍醐味は、加速性や直線の速さではなく、コーナリングにこそバイクを操縦する楽しさがある。負け惜しみと言われようが、私はそう考えていた。
同じ単気筒でも排気量が500ccもあるとなれば、楽しいに決まっている。想像するだけで、ワクワクしてくるじゃないですか。
当時ビッグシングルのロードスポーツ車がなかったわけではありません。BSA B34ゴールドスター、ノートンES2などがありましたが、外車は多くの人にとって高嶺の花でしたから、国産メーカーのヤマハが出してくれるとなれば、手が届くかもしれないというわけです。
この時点で、私はこのビッグシングル・ロードスポーツ「ロードボンバー」の製作者が長島英彦(ペンネームは、島 英彦)さんだとは知りませんでした。
実は、私と島さんとは、以前から知り合いでした、というよりとてもお世話になっていたのです。
ええーっ、そんなことあったの? というウラ話は、次回この続きをご覧ください。
■以下、当時の記事を抜粋
ロードスポーツはマルチ全盛の昨今だが、DT1以来ヤマハ技術陣の頭の中に眠っていた、単能化への欲求が再び形として現われた。
ロードスポーツ車、特に大排気量車はマルチにかぎる、というセオリーをあえて冒して、ビッグシングル・エンジンを採用したのは、軽く、シンプルな、扱い易いロードスポーツに徹して、ぜい肉を極力はぶいた造りにすれば、スポーツ性を充分発揮できるし、さらにシングルのおもしろさも味わえる、というわけだろう。
マルチ・エンジンを見馴れた眼には実に新鮮だ。
(モトライダー誌から抜粋・あくまで当時のエイプリルフール記事です)