
ドジャース佐々木朗希投手(23)が「3・11」への思いを明かした。津波で父と祖父母を亡くした東日本大震災から14年。球団を通じて現在の心境を語った。公表はされていないが、東京開催の開幕シリーズでは2戦目でメジャーデビューすることが有力。節目の登板に弾みをつけるべく、米アリゾナ州でのキャンプ最終日となる11日(同12日)、ガーディアンズとのオープン戦で対外試合初の先発に臨む。
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佐々木と「3・11」にまつわる新事実がある。11年3月11日、岩手・陸前高田市。当時小3の朗希少年たちに高さ15メートルの大津波が迫る。彼らから津波を引き離したのは“血の形相”だった。震災から14年、男性(匿名)は初めてあの日の出来事を明かした。
佐々木の“恩人”なのだろうか。間髪入れずに否定する。「子どもたちを救ったなんて全く思いません。誰もが必死だっただけ」と奥ゆかしい。しかし生存本能に響く訴えが、小学生を大津波から遠ざけた。佐々木自身も以前、テレビ取材で「血を流した人が走ってきて、パニックで校庭からみんな逃げた」という趣旨の証言をしている。
佐々木の父功太さんの長い友人だ。「よく自転車で走ってた。『よぅ、朗希』って声掛けると、照れて『ウン』って表情をする子で」。11年3月10日までご近所同士。男性は自営業。あの日、大きな揺れで15キロの商品が棚から落ちた。「いてぇ!」。左側頭部を切った。自宅を見に行き、店へ戻った頃。近くの消防署員が血相を変えて叫んでいたのを見た。
「逃げろぉ! 堤防が壊れたぞぉ!」
それでも男性は「堤防をジャバッて越えたくらいだろ」の認識だった。かつて2度の津波に襲われた陸前高田。でも「町の長老たちはいつも『津波も線路は越えない』って話して。それがすり込まれたのかな」。800メートルほど内陸の高田小へ歩き始めた。佐々木と同級生の子どもを迎えに行くために。
偶然振り返った。線路を越えないどころじゃない。「壁ですね。2階建て以上の。最終的に15メートル。視界一面真っ黒の壁がズアーッて来て。掃除機の中みたいに、電信柱も建物も全部のみこんで」。生き残るためにひたすら走った。
息も絶え絶えで高田小に到着。校舎1階の高さの校庭に子どもたちは固まっていた。「海側に土煙が舞っていて。極端に言うと、子どもたちはそれに目を奪われすぎて足が動かないように見えました」。だから反射的に叫んだ。
「死ぬぞぉ!! 逃げろぉ!! 走れぇ!!」
いつの間にか額への流血がくっきりしていた。命の危機を伝えるのに、あまりにも雄弁。佐々木少年もその顔で動いた。
校舎へ逃げる子どもたち。そこじゃダメだ。校舎の2メートル上の道へ次々と持ち上げる。「山へ走れ!!」と伝えながら。佐々木の兄、当時小学6年の琉希さんを最後に上げ、自分も高台へ。夜が明けると、校舎1階は流されてきたガレキや車で埋まっていたという。
男性は「5分遅かったら俺は死んでいた」と言う。“流血の男”が現れず、津波の勢いがもう少し強かったら…。校舎2階に避難して助かっても、トラウマの光景を見たかもしれない。佐々木朗希はそんなギリギリのところから、ここまで来た。友は「功太君に今の朗希を見せてやりてぇな」と涙した。【金子真仁】
◆東日本大震災での陸前高田市 当時の人口2万4246人に対し、犠牲者は行方不明者含めて1900人以上になり、3000世帯以上が津波により全壊。約7万本あった高田松原の松は「奇跡の1本松」以外全て倒された。25年2月時点の人口は1万7130人。
◆東日本大震災 2011年(平23)3月11日午後2時46分、宮城県沖を震源とするマグニチュード9・0の地震が発生。最大震度は宮城県栗原市の震度7を観測した。岩手、宮城、福島の3県を中心に沿岸部は大津波に襲われ、今月1日現在の死者は全国で1万9782人。行方不明者は2550人に上る。同日、東京電力福島第一原発の事故が発生。避難者は一時16万人以上に上った。