奈良県大和郡山市の行政代執行で解体される予定で、同市東岡町に残るシンボル的な遊郭建築(木造3階建て延べ約416平方メートル)が、1924(大正13)年ごろから新たに開発された場所に立地し、遊郭の数が急増した34(昭和9)年ごろまでの間に建てられた可能性が高いことが研究者への取材で判明した。
東岡町は郡山城下町のすぐ南側で、奈良と大阪を結ぶ奈良街道沿いに位置する。明治期の県内4カ所の公認遊郭の一つで、市内では近くの洞泉寺町も公認遊郭だった。
県内在住の近代女性史研究者、西山真由美さんらによると、鉄道敷設が東岡町の変遷に大きくかかわった。
県内では1890(明治23)年、王寺―奈良間で鉄道(現JR大和路線)が初開業。2年後に大阪までつながった。遊郭への客は、現JR郡山駅に近い洞泉寺町に流れた。当時の記録によると、娼妓(しょうぎ)(特定の地域で公認されて売春をした女性)の数は、洞泉寺町で増えて100人前後で推移する。一方、東岡町は91年に18人と20人を割り込み、以降34年間、0を含め20人未満が続く。
東岡町はこの間、芸者(芸妓)中心の華やかな花街として栄えた。「浪花節芸妓」は金魚、御殿桜(郡山城跡の桜)と並び、大和郡山を代表するものと評された。1914(大正3)年、大阪電気軌道(大軌)が大阪―奈良間に鉄道(現近鉄奈良線)を開通させると、「生駒新地」がライバルとして台頭する。
大軌は21(大正10)年、奈良市の西大寺駅から南に大和郡山(現近鉄郡山駅)まで鉄道(現近鉄橿原線)を延ばし、2年後に橿原神宮前まで全通させた。郡山駅に近い東岡町では、金魚養殖で財を成した人らが従来の花街の西側を「岡町新地」として開発。新時代を迎えた。
東岡町の娼妓数は24(大正13)年の18人が1年後に81人に急増。28(昭和3)年には洞泉寺町を上回り、30年に200人、34年に300人に達した。長く一桁だった貸座敷(妓楼=娼妓がいる店)数も30軒近くに増えた。
当時の知識人、水木要太郎(十五堂=雅号)が33年、「南都馬角斎(なんとばかくさい)」のペンネームで寄稿した「大和の遊郭」には、「(大正)十四年一月清月楼開業……、今は妓楼二十五軒、娼妓二百八十人あり」と記されている。
解体される建物は、清月楼の北隣で、「岡町新地」の東端に立地する。格子の外観や木造3階の建築様式が、洞泉寺町に残る国登録有形文化財・旧川本楼(町家物語館、24年上棟)と同じでもあり、西山さんはこの時期の建築と推定している。
東岡町では売春防止法施行(58年)後も非合法で売春が続いていたとみられ、89(平成元)年のフィリピン人女性らへの大がかりな売春強要事件の摘発で、終焉(しょうえん)を迎えた。
取り壊される建物は、往時の隆盛をうかがわせ、威容を誇る。最後の姿を目にとどめ、記録に残そうと、解体を知って訪れるマニアらの姿が絶えない。
解体について西山さんは「廃墟化で東岡町の『負の歴史』『負の遺産』のイメージが増幅されてきた面がある。住民が安心して暮らすためにも必要」と理解を示す。「遊廓研究はまだ日が浅いが、分かってきたことをしっかり次世代に残していきたい」と話す。
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大和郡山市は25日、空き家対策特別措置法に基づき、「特定空き家」に認定したこの建物の解体を、10月15日に始めると発表した。費用は約1700万円で、年内に完了する見込みだ。上田清市長は「やむを得ない決断」と話している。【熊谷仁志】