昨年6月、ロシア国内に衝撃を与えた民間軍事会社「ワグネル」の反乱から1年が経過した。反乱の2カ月後、創設者のエフゲニー・プリゴジン氏は自家用ジェット機の墜落で不慮の死を遂げ、ワグネルは事実上解体された。
一方、皮肉なことに、亡きプリゴジン氏が糾弾していた国防省と軍の指導部では人事の刷新が最近、急速に進んでいる。
反乱は、ワグネル側が昨年6月23日に露軍から攻撃を受けたと訴え、翌24日早朝に始まった。重武装の部隊がロシア南部から首都モスクワに向けて進軍し、混乱が拡大。プリゴジン氏が同日夜に進軍の中止を発表し、ようやく治まった。
騒乱から1年後の6月23日午後、露北西部サンクトペテルブルク郊外のプリゴジン氏の墓を訪ねると、数人の男女が最近建てられた銅像を写真に撮ったり、見つめたりしていた。その中に、像の前にじっと立つ男性がいた。
40歳というこの男性は、友人がウクライナで戦死したという。自身は2年前の部分動員令で招集されたが、子どもが多いことを理由に免除されたと明かした。反乱を率いたプリゴジン氏について「彼は逃げ場のない戦場で誰も見捨てなかった。この国の愛国心を高めた男だ」と手放しで称賛し、「(第二次大戦の)独ソ戦の英雄たちと同一視できる」とまで言い切った。
軍指導部への激しい批判で国民の一部から人気を得たプリゴジン氏の信奉者は、今も存在するようだ。
政商のプリゴジン氏は、共にサンクトペテルブルク出身のプーチン大統領と近しい関係を築き、2014年ごろにはワグネルを創設した。22年2月に特別軍事作戦が始まると、ワグネルの雇い兵部隊をウクライナ東部に投入。前線での激戦により、囚人出身者を含む戦闘員の死者は約2万人とされる。
国の全面的な支援で運営されていたワグネルは次第に、国防省・軍との間で弾薬の補充や戦略を巡って対立を深めた。プリゴジン氏は当時のショイグ国防相らを激しく非難して注目を浴びた。この確執が23年6月の武装蜂起につながった。
同8月のプリゴジン氏の死後、ワグネルの戦闘員は軍と契約を結ぶ形で再編され、一部はロシアが影響力拡大を狙うアフリカなどで活動を続けているとみられる。露軍はワグネルの助力を失ったが、昨年夏のウクライナ軍の反転攻勢をしのぎ、その後、攻勢を強めている。
前線での露軍の優勢が伝えられる中、今年5月7日のプーチン氏の大統領5期目就任前後に進められたのが、国防省と軍の粛正だ。プーチン氏は新内閣の人事で国防相をショイグ氏から第1副首相だったベロウソフ氏に交代。ショイグ氏は安全保障会議書記に就任したが、事実上の更迭となった。
この人事に先立ち、ショイグ氏の側近だったイワノフ国防次官が4月に収賄容疑で逮捕されている。5月以降も、同省のクズネツォフ人事総局長や、軍のシャマリン参謀次長兼通信総局長らが汚職などで摘発され、4~5月に逮捕された国防省・軍の高官は少なくとも5人にのぼる。
在外のロシア人政治評論家スタノバヤ氏は5月下旬、「プリゴジン氏が実現できなかったことを連邦保安庁(FSB)が成し遂げようとしている」との指摘を通信アプリに投稿。「プリゴジン氏は大声で軍を批判したが、FSBは静かに『(汚職の)資料』を集め、プーチン氏の説得に成功したのだろう」と述べた。
プーチン氏の出身母体でもある治安機関のFSBと国防省・軍は緊張関係にあるとされる。スタノバヤ氏は、一連の摘発の背景には政権内の権力闘争があるとの見方を示した。6月にはさらに、プーチン氏が、ショイグ氏に近かったとされる国防次官4人の解任を発表し、後任の1人には自らの親族女性を抜てきした。ショイグ氏の国防省への影響力はほぼ排除された形だ。
サンクトペテルブルク中心部には、プリゴジン氏の事務所が入っていた建物がある。壁の石板には「ここでロシアの英雄プリゴジン氏が働いていた」と書かれている。通り過ぎる人が多い中、足を止める初老の男性がいた。声をかけ、「彼は英雄だと思うか」と水を向けると、こう答えた。「そうは思わない。ただ、軍の問題を提起した点は一つの業績かもしれない」【サンクトペテルブルクで山衛守剛】