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地下鉄サリン事件から30年、芸能記者として関わった当時を振り返り考えさせられるメディアの姿勢


2025年3月20日、地下鉄サリン事件から30年が経過しました。この事件は、オウム真理教の信者による東京メトロ(当時は営団地下鉄)の車内での同時多発テロで、神経ガスのサリンが撒かれ多くの犠牲者を出しました。当時、芸能記者として現場を取材した筆者は、築地駅近くの惨状を目の当たりにしました。この日、記者は予定変更を余儀なくされ、交通混乱の中で取材業務を続けました。事件を契機として、メディアの報道姿勢も大きな議論を呼びましたが、事件の恐怖が日々のニュースとして取り上げられる中で、社会の関心も移り変わりました。事件を機に様々な視点が浮上し、メディアの在り方について深く考える契機となったと述べています。

築地駅前で救助活動を行う救急隊員ら(95年3月20日撮影)

<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>

20日に地下鉄サリン事件から30年がたつ。オウム真理教の信者らが、朝の通勤時間に営団地下鉄(現東京メトロ)の車内に同時多発で神経ガスのサリンをまいたテロ事件だ。当時も芸能記者として取材をしていた者として振り返る。

事件を知ったのは朝のワイドショーだった。日比谷線、千代田線、丸ノ内線の車内でサリンがまかれていた。日刊スポーツ本社は日比谷線の築地駅のそばにある。昼飯を食いに行くことも多かった、そば屋「更生庵」の店先にブルーシートが敷かれ、被害者らが寝かされていた。会社そばの聖路加国際病院に被害者が次々と運ばれていった。

顔見知りの芸能リポーターが、前代未聞の惨事を伝えていた。当日は盲腸で入院していた梅宮アンナが赤坂の前田外科病院(当時)を午前10時に退院予定で、日刊スポーツも記者を派遣予定だった。事件発生が午前8時前後だったため、記者が直接被害に遭うことはなかった。

当日は正午からテレビ朝日の定例会見。記者はサブ幹事の当番だった。当時のテレビ朝日本社は赤坂アークヒルズにあった。記者は日比谷線の神谷町から坂を登っていたが、千代田線・丸ノ内線の国会議事堂前駅や千代田線の赤坂駅からも歩いて行けた。

当然中止だろうと思って、担当者に電話すると「あなたはサブ幹事なんだから、はってでも来てください。電車が動かないんだったら、タクシーを使ってください」と言われた。

ニュースを見ながら、テレビ朝日本社への行き方を考えた。当時、記者が住んでいたのは埼玉県草加市の実家。現在は東武スカイツリーラインという名前になっているが、当時は東武伊勢崎線。本来なら日比谷線直通で乗り換えることなく神谷町まで行けるのだが、北千住駅から先の日比谷線は止まっている。

パソコンなどない時代、路線図を眺めていると北千住の先の東武浅草駅まで行けば、地下鉄銀座線が動いている。今と違って溜池山王駅などない時代。虎ノ門駅で下車して、一生懸命に歩いてテレビ朝日本社に到着した。

会見は駆け足で行われた。スポーツ新聞の芸能記者は、大きな事件が起これば“事件記者”に変身する。急いで帰ろうとすると、テレビ朝日の関係者に止められた。その日は、定例会見の後に、4月から同局の人気深夜番組「トゥナイト2」のアシスタントを務める長野朝日放送の斎藤陽子アナウンサーのお披露目会見が予定されていた。「他の記者は帰っても、あんただけは取材して」という、偉い人の言葉もあって、対面インタビューに近い形で話を聞いた。

3月いっぱいで長野朝日放送を退社予定だった斎藤アナは、セレモニー的意味合いもあって、この日の朝一番で信越本線で上京して上野駅に降り立った。1年前の松本サリン事件の取材、報道経験を持つだけに「東京に着いたら大変なことになっていた」と驚いた顔を見せていた。

被害が広範囲にわたった日比谷線は終日運休となっていた。一部で運転を再開した千代田線に、赤坂駅から乗って日比谷駅で降りた。銀座の街を通って、築地の社に帰った。多くの被害者の治療に当たった聖路加国際病院へと続く、社の前の通りはごった返していた。前夜に芸能班から社会班へと移動になる後輩とグラスを傾けていた、築地駅そばのバー「ギャラクシー」のあたりも立ち入り禁止区域になっていた。

犯行がオウム真理教によるものと判明して、東京・南青山総本部の前に連日、取材陣が殺到した。放送担当だった記者は、午後6時にNHKの放送記者クラブに上がって新聞早版の原稿を書き、午後8時から南青山総本部前に詰めて午後10時に終了というのがルーティンになっていった。

大変な事件だったが、普段の現場はのんきなものだった。雨が降って、東京都のごみ袋をレインコート代わりにかぶった後輩記者の姿が「南青山総本部前に張り込む取材陣」と日経新聞の夕刊にデカデカと掲載された。社内に「取材中はごみ袋を着ないこと」と張り出された。当事者の後輩は「ひどいですよね、雨の中で張り込んでいるのに」と愚痴をこぼしていた。みんなは笑っていたが、今だったら大問題だ。

当時はセクハラ(セクシュアルハラスメント)という言葉こそあったが、コンプライアンス(法令順守)などは見たことも聞いたこともなかった。死者が多数出た事件にもかかわらず、オウム真理教のあれこれがワイドショーやスポーツ紙で笑いに変えられたこともあった。

オウム真理教が経営していたラーメン店「うまかろう安かろう亭」の食レポ、関係者が働いていた新宿2丁目のバー「カレッジの王様」への潜入取材、そして麻原彰晃教祖(松本智津夫元死刑囚)の空中浮遊をまねた芸人を取り上げた。麻原教祖の弁護人を務めた横山昭二弁護士は「横弁(よこべん)」のニックネームを付けられ、その言動がワイドショーで連日、おもしろおかしく取り上げられた。

記者も少なからず関わっていただけに、当時を振り返って自責の念に堪えない。あらためて当時の被害の大きさ、そしてメディアの姿勢について考えさせられた。そんな地下鉄サリン事件からの30年だ。【小谷野俊哉】

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