まるで幽霊を捕まえるような科学的偉業が達成されました。
スイスのスイス連邦材料科学技術研究所(Empa)を中心とした国際研究チームによって、これまで理論上でのみ予測されていた特殊な構造が再現され、さらにその中に現れる幻の粒子「スピノン」の定在波パターンを初めて「可視化」することに成功しました。
この粒子は電子が持つ電荷と磁気の両方のうち磁気的な性質(スピン)だけが切り離され、まるで磁気だけを持つ幽霊のように物質内を動き回るという、極めて奇妙な特徴を持っており「スピンの幽霊」の異名を持ちます。
今回の発見は、単なる理論上の現象を超えて、量子コンピュータや新しい電子デバイスなど、最先端技術への応用の可能性を大きく広げる成果です。
「スピノン」がもたらす未来のテクノロジーとは一体どのようなものなのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年3月14日に『Nature Materials』にて発表されました。
目次
- 磁石の謎から量子の幽霊へ
- 「スピンの幽霊」を観測!量子物理学の100年の予言が的中
- 「幽霊粒子」の観測は量子テクノロジーをどう変えるか?
磁石の謎から量子の幽霊へ

子どもの頃、磁石で遊んだ経験を持つ人は多いでしょう。
砂鉄を引きつけたり、磁石同士をくっつけたり反発させたり。
そんな身近な磁石ですが、その仕組みを科学的に理解する道のりは決して平坦ではありませんでした。
古代から磁石(天然の磁鉄鉱)の存在は知られていましたが、磁石が「なぜ」磁力を持つのか、その理由は長い間謎に包まれていました。
11世紀の中国では羅針盤として実用化されましたが、その磁力の根源は古典物理学では解明できず、20世紀初頭に登場した量子力学を待つ必要がありました。
量子力学が登場した1920年代、磁石の正体が徐々に明らかになっていきました。
その正体とは、物質の中にある電子が持つ「スピン」というミクロな磁石としての性質だったのです。
電子のスピンは非常に小さな磁石のように働き、そのスピン同士が一定の方向にそろって整然と並ぶと、物質全体が磁石として振る舞います。
一方、スピンがバラバラの方向を向いてしまうと、それぞれのスピンが生み出す磁力は打ち消しあい、磁石としての性質は失われてしまいます。
ある意味で、電子は電荷を運ぶ基本粒子であると同時に極小磁石でもあったわけです。
ところが、このスピンを詳しく調べる中で、科学者たちはさらに奇妙な予言に直面します。
電子1個のスピンの大きさは「1/2」という特定の値で決まっているのですが、通常、物質の中で一つの電子のスピンを反転させる(方向を逆向きにする)と、物質全体のスピンは「1」だけ変化します。
電子1つが動いたのに、物質全体では電子1つ分の「1/2」ではなく「1」だけスピンが変化するという、一見奇妙なことが起きていたのです。
これが量子磁石の世界の常識でした。
しかし理論物理学者たちは、特定の特殊な状況(例えば一次元の鎖のような構造)では、この常識が破られる可能性があることを指摘しました。
通常は物質のスピンが整数でしか変化しないのに、ある条件の下では「1/2」という半端な量だけスピンが変化することが理論上可能だと示されたのです。
この半端なスピンを物理学者たちは『スピノン』と名付けました。
このスピノンの性質もなかなかに異様なものです。
スピノンは通常の電子と異なり電子が持つ電荷(電気的性質)は全く持たず、磁力に関わるスピンだけを持つため、物質の中を自由に動き回っても電気的には検出できないという、まるで『スピンの幽霊』のような粒子です。
理論的には予測されていたものの、スピノンは特殊な性質ゆえに、実験でその姿を直接捉えることは非常に難しく、長年にわたり『捉えどころのない謎の粒子』とされてきました。
実際にスピノンを観測しようと試みても、従来の実験手法では大きな問題がありました。
通常の物質で電子のスピンをひっくり返すと、安定したスピンのペア構造が崩れ、常に二つのスピノンがペアで同時に生じてしまいます。
そのため、一つだけ孤立したスピノンを取り出して観察することができなかったのです。
この状況から、「スピノンは必ずペアで現れ、単独では存在しない」と、実験物理学者たちは長年考えてきました。
こうした背景のもと、研究者たちは、理論的に予言されたこの不思議な粒子、スピノンを実験的に直接観測し、その謎を解明することに挑みました。
もし実験で孤立したスピノンを直接見ることができれば、量子力学が予測した不可思議な現象を裏付けることになり、さらには量子磁石にまつわる新たな物理現象の発見へと繋がるかもしれません。
そこで今回研究者たちは、『スピンの幽霊』を捕まえる試みに挑むことになりました。
研究者たちはこれまで誰も成功できなかった『スピンの幽霊』を、いったいどのような方法で捕まえたのでしょうか?
「スピンの幽霊」を観測!量子物理学の100年の予言が的中

どのようにして「スピンの幽霊」を捕らえたのか?
鍵となったのはナノグラフェン分子と呼ばれる特殊な分子です。
ナノグラフェンとは、炭素原子が蜂の巣状につながったグラフェンという物質を、ナノメートルサイズに切り出したものです。
このナノグラフェンはその形状によって様々な磁気的・電子的な性質を示します。
研究で用いられた「オリンピセン」という分子は、5つのベンゼン環が環状につながった構造をしていて、オリンピックの五輪マークを連想させる形状をしています。
このオリンピセンは1つの電子が対になっていない「非対電子スピン(S=1/2)」を持つ磁性分子で、スピノンを生み出す理論モデルに理想的な特徴を備えていました。
研究者たちはまず、このオリンピセンを1つ1つ丁寧に結びつけることで、人工的な「スピンの鎖」を作り上げました。
オリンピセン同士をまるでレゴブロックのようにつなげて並べていくと、それぞれのオリンピセンが持つ小さなスピン同士が互いに影響し合うことで、理論上予測されていたスピノンが出現する構造(1次元の反強磁性スピン鎖:ハイゼンベルク鎖)が作り出されます。
さらに研究者たちは、この鎖を長さの異なるいくつものバリエーション(5個や7個、最長では50個のスピン)で用意し詳細に観測しました。
そのために使われたのは、「走査型トンネル顕微鏡(STM)」という特殊な顕微鏡です。
走査型トンネル顕微鏡は非常に鋭い針先を物質に近づけ、わずかな電圧をかけて電流が流れる様子を調べることで、物質のミクロな性質を探ることができます。
研究チームはこの走査型トンネル顕微鏡を使ってオリンピセン鎖の一つひとつにごく小さな電圧を与え鎖の各位置における電流の強さを非常に精密にマッピングしました。
すると特に「奇数個のスピンを持つ鎖」(5個や7個など)では、電流の強さが交互に強弱の山谷パターンを描いていることが確認されました。
これはまさに理論が予測した「単一スピノンの定在波」と呼ばれるパターンに一致します。
【コラム】定在波パターンを可視化することがなぜスピノンを観測したことになるのか?
スピノンという不思議な粒子を実験で確認したとき、研究者たちは「定在波パターン」を画像として捉えました。でも、なぜこの「波」のような模様を撮影できたことが、「スピノンそのものを観察できた」ことになるのでしょうか?
まず、「定在波」というのは、文字通り「その場で止まっている波」のことを指します。
水面に石を投げると、波は遠くまで広がっていきますが、もし池の両端が壁で囲まれていれば、波は進んだ後で反射して戻り、何度も往復を繰り返して、進まないままその場で上下に動く波(定在波)ができることがあります。今回の実験では、電子のスピン(小さな磁石の性質をもつ粒子)が一列に並んだ特殊な鎖を作りました。この鎖は両端が固定されているので、その中にできるスピンの波も進まず、その場にとどまったまま上下に動く定在波になったのです。スピノンは電子が持つスピンがちょうど半分だけ「分裂」した粒子です。通常の電子のスピンは1個単位で存在し、定在波も普通は整数単位でしか存在できません。ところが奇数個のスピン鎖のような特殊な環境では、理論的に「半整数(1/2)のスピン」を持つスピノンが定在波として存在できることが予測されていました。そのため研究者たちは、定在波パターンを捉えることで、「スピンがちょうど半分だけ」という奇妙な粒子スピノンが本当に存在していることを証明できたわけです。つまり、スピンが整数ではなく半分だけの定在波パターンが実際に観測できたということは、「スピノンが存在する確かな証拠」となったのです。
単一スピノンは鎖の端から端まで広がる波のように存在し、その波の節(ノード)が鎖の特定の位置に見られました。
これによって、研究者たちは長らく実験的に観測不可能と言われてきた「孤立した1個のスピノン」を定在波パターンとして視覚的に捉えることに成功したのです。
スピノンの理論的存在が示唆されるようになってからおよそ100年を経た偉業と言えるでしょう。
では、この「スピノン」の直接観察は、私たちにどのような新たな可能性をもたらすのでしょうか?
「幽霊粒子」の観測は量子テクノロジーをどう変えるか?

今回の研究によって、理論上で予測されていた謎の粒子「スピノン」が実際に存在することが実験的に示されました。
スピノンは長らく理論物理学者の想像の中にだけ存在し、実際には決して目にすることのできない「幽霊のような粒子」だと考えられていました。
それを実際に観察できたことは、量子物理学において非常に大きな意味を持ちます。
これは、単なる粒子の存在証明にとどまらず、「量子世界の理論が現実の物質で実際に再現可能である」という強力な証拠となったからです。
スピノンがなぜこれほど注目されるのか、その理由の一つは、その不思議な性質にあります。
スピノンは電子から「スピンだけを切り離した粒子」で、電子が持つはずの電気的な性質(電荷)をまったく持っていません。
つまり、スピノンは電流を流すことができないにもかかわらず、磁気的な性質だけを運び、物質の中を自由に動き回ることができます。
これはまるで、姿は見えないが気配だけを伝える「幽霊」のような存在です。
こうした性質を持つ粒子が実験的に確かめられたことで、科学者たちは新たな量子現象を実験室で研究するための重要な道具を手に入れたことになります。
スピノンがもたらす可能性は単なる理論研究にとどまりません。
実際のところ、スピノンのような粒子を使うことで、全く新しいタイプの電子デバイスの開発が可能になるかもしれません。
特に量子コンピューターの分野では、「スピンだけが動き回る」という現象を利用し、量子情報を効率よく運ぶ技術が考えられます。
また、近年注目される「スピントロニクス」と呼ばれる新技術では、電子が持つ磁気的性質(スピン)を使って情報を伝えることで、従来の電子工学の限界を超えようという試みが行われています。
この分野においても、スピノンの特異な性質が情報伝達の新たな手段となる可能性があります。
今回の研究で特に重要なのは、研究チームが「ナノグラフェン」という特別な分子材料を「量子レゴ」のように自在に組み合わせて、理論上のスピノンを実験的に実現したという点です。
ナノグラフェンは原子レベルの精密さで形や性質を調整できるため、量子の世界で起こるさまざまな奇妙な現象を実際に再現できる強力なツールとなっています。
これによって、他のさまざまな量子物理現象も実験室で再現できる可能性が広がりました。
具体的には、研究者たちは将来、ナノグラフェンを使って、フェリ磁性と呼ばれる少し複雑な磁性を示す鎖状構造や、さらには平面状に広がる二次元的なスピン構造を実現しようと考えています。
二次元のスピン構造はさらに多彩で複雑な量子現象を示すことが理論的に予測されており、未知の量子状態や、量子コンピューターなどの技術への応用の可能性も秘めています。
量子物理の理論モデルを次々と現実に再現する今回の研究アプローチは、一見すると子どもの遊ぶレゴブロックのようにも思えます。
しかし、このアプローチの本質的な意味はとても実用的です。
現代の量子技術(量子コンピューターや量子暗号通信、超高感度センサーなど)は、その性能が理論上では非常に優れているものの、実際に利用可能な状態で安定して維持するのはとても難しいのです。
そのため、実用化の壁は非常に高く、量子状態を確実にコントロールし、保持できる技術が強く求められています。
だからこそ、今回の研究のようにナノグラフェンを自在に組み合わせて理論上の現象を実験で実現する手法は、これらの量子技術の開発を前進させる重要な基礎的な役割を果たすでしょう。
今回、スピノンという「幻の粒子」を実際に捉えたことは、量子物質を自在に操るという壮大な目標に向けた大きな一歩と言えます。
将来、この小さな炭素の鎖状物質から生まれた新しい量子技術が、通信や計算の分野で社会を大きく変える日がやって来るかもしれません。
元論文
Spin excitations in nanographene-based antiferromagnetic spin-1/2 Heisenberg chains
https://doi.org/10.1038/s41563-025-02166-1
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部