戦国時代の紀州(現在の和歌山県)では雑賀衆という傭兵集団が存在し、その中で指導的な立場にあった雑賀孫一は戦国時代を舞台にした作品でもお馴染みの人物です。
しかし雑賀孫一の知名度とは裏腹に、雑賀衆の実態についてはあまり知られておりません。
果たして雑賀衆とはどのような集団だったのでしょうか?
この記事では戦国時代の傭兵として有名な雑賀衆がどのような構成だったのか、どんな戦いに参加したのか、どうしてそこまで名を馳せることができたのかについて紹介していきます。
なおこの研究は、丁諾舟(Ding Nuozhou 2023)『戦国時代の紀伊地域における傭兵活動に関する研究 : 雑賀衆傭兵団を中心に』國學院大學大学院文学研究科東アジア文化研究2巻p. 127-143に詳細が書かれています
目次
- 緩やかな構成だった雑賀衆
- 雑賀衆同士で敵味方に分かれて戦うこともあった
- 時代の隙間で大暴れした雑賀衆
緩やかな構成だった雑賀衆
かつて紀州の地で風に舞うように活躍した雑賀衆――その存在の裏側を覗く「湯河直春起請文(ゆかわなおはる・きしょうもん)」は、なんとも興味深い史料です。
これは簡単にいえば紀州の地元大名の湯河直春が父親から家督を相続した際、父親と同様に雑賀衆と良好な関係を築きたい旨を伝達する文書で、雑賀衆の各地域のリーダーたちの名前や花押がつらつらと記されています。
それだけでなく、雑賀衆を構成する地域やその上下関係、さらには組織内の力学までもが浮かび上がってくるのです。
この文書が特に歴史家の目を引くのは、名高い傭兵隊長・雑賀孫市の名前が史料に初めて登場する点です。
しかし、注目すべきは彼個人よりも、雑賀衆全体の仕組みにあります。
雑賀衆は一つの強固な傭兵団というより、地縁を持つ独立した団体の緩やかな連合体だったのです。
各リーダーは自分の部下を束ねるに留まり、一括して全体を代表する人物はいません。
そのため、起請文も合意を象徴する文書として、全員が同じ紙に名を連ねる形式をとったのです。
とはいえ、この「協力」はどこか気まぐれです。
雑賀衆の自治は合議制に近く、必要なときだけ連携し、いざとなれば独立性を強調して離反することも少なくありませんでした。
このように、雑賀衆はまとまりに欠ける一方、しなやかで自由な力を発揮する独特の組織だったのです。
「湯河直春起請文」は、そんな雑賀衆の魅力と複雑さを、紙一枚に凝縮した不思議な一枚であります。
雑賀衆同士で敵味方に分かれて戦うこともあった
雑賀衆という名を耳にしたならば、その響きからして、いかにも荒々しい傭兵集団を思い浮かべるのではないでしょうか。
彼らは、戦国時代の日本において、「働き者の戦士」なる言葉を体現した存在でした。
しかし、彼らの働きぶりときたら、まさに風のごとく奔放、雇い主の都合よりも自らの利益を第一に考える、そんな気風に満ちていました。
雑賀衆が歴史の舞台に初登場したのは、1535年、大坂へ300名が援軍として赴いたという記録です。
これが戦国傭兵としての初仕事かどうかは定かではないものの、以降、彼らは合戦に次々と関わっていくのです。
1570年から1585年にかけては、ほぼ毎年のように大戦争に参加し、その名を近畿一帯に轟かせました。
この全盛期の戦乱は、ちょうど戦国の覇者たちが上洛を目指し、権力争いに熱中していた時期と重なります。
雑賀衆がこうした乱世で繁忙を極めたのは、彼らの戦闘技術と、その名声ゆえと言えるでしょう。
雑賀衆の雇い主は実に多様でした。
天下人織田信長から宗教勢力の本願寺まで、政治的信条も宗教観も異なる人々が彼らを雇い入れたのです。
時には以前の敵が次の雇い主となることもあり、敵味方の区別などほとんど無きに等しかったとのこと。
例えば、本願寺のために戦った後にはその敵方に味方することもあり、忠義などという概念をあっさり捨て去る姿勢が特徴的でした。
また、雑賀衆の自由奔放さは戦場においても顕著でした。
同じ戦争で両陣営に加担することさえ珍しくなく、1577年の織田信長による紀州攻めでは、その一部が信長に付き、他の一部が地元勢力と共に戦ったという記録も残ったほどです。
こんな具合だから、「戦国の裏切り者」などという不名誉な称号を背負うこともしばしばあります。
通常の組織であれば、組織全体を束ねるリーダーが雑賀衆全体の利益を考えて、大規模な同士討ちが起こらないように調整したりします。
しかし雑賀衆が他の傭兵集団と異なるのは、先述したように全体を統括するリーダーが存在しなかった点です。
そのため、各隊長が独自に契約を交わし、戦場での方針も個々の判断に委ねられました。
これが、同族同士での戦いという奇妙な現象を生んだ一因です。
普通、戦争では勝利のために団結するものですが、雑賀衆の場合は利益追求が第一だったのです。
このように雑賀衆は、戦国時代という特異な時代の申し子であり、戦乱が彼らを育て、また彼らが戦乱を煽ったとも言える存在といえます。
彼らの活躍は戦国の歴史に深い影を落とし、そして今もなお、語り継がれるべき異端の傭兵伝説として輝いているのです。
時代の隙間で大暴れした雑賀衆
雑賀衆は紀州の荒地を背に、傭兵として名を馳せ、石山合戦をはじめとする舞台でその力を遺憾なく発揮しました。
だが、何が彼らを戦国の舞台で躍進させたのでしょうか。
雑賀衆の活躍を支えた第一の要因は、時代そのものの無政府的性質です。
この時代、全国的な統治機関は存在したものの、その支配力は弱く、実質的には大名たちが領地を争う戦乱の渦中にありました。
大小様々な戦が日々繰り広げられる中、傭兵は絶え間ない需要に応える存在となったのです。
戦争が頻発することで、武器を手に戦場を渡り歩く傭兵たちは収入を得、戦いの技を磨いていきました。
雑賀衆は、こうした戦乱の中でその地位を確立し、鉄砲隊という新たな戦術で他を圧倒したのです。
また、武士による戦力の限界も傭兵の必要性を高めた要因でした。
領主が農業生産を基盤とする封建社会では、武士の死傷は農村社会の安定を揺るがしかねない問題であったのです。
限られた資源の中で、勝利を渇望する勢力が目を向けたのが、地域を超えて雇用できる傭兵でした。
雑賀衆は、紀州の地元に留まらず、各地の戦場でその腕前を発揮し、名声を得たのです。
さらに、雑賀地域自体の農業生産力の低さと、人口過剰の問題が彼らを傭兵の道へと導きました。
肥沃ではない土地に縛られた彼らは、生きる術として戦場に向かったのです。
武器を手にして戦うことは、荒地で作物を育てるよりも現実的な選択でした。
こうして、紀州の荒地が育てた戦士たちは、戦場での武勇によって名を馳せていきます。
加えて、近畿地方の経済的繁栄もあります。この時代、農業生産力の向上と社会的分業の進展が見られました。
戦うことに専念する雑賀衆が生存できたのは、衣服を仕立てる者、武器を鍛える鍛冶屋、食糧を供給する農民が存在したからです。
こうした分業社会の発達が、雑賀衆という職業戦士の土台を支えました。
世論の影響も見逃せません。
確かに傭兵に対する偏見は当時も存在したものの、16世紀の日本において、雑賀衆のような働き者の傭兵が怠けることなく戦い抜く限り、彼らに対する反感は薄かったです。
むしろ、戦場での彼らの働きぶりは評価され、時に称賛さえされたといいます。
統治者も百姓も、必要な戦力として彼らを認めざるを得なかったのです。
しかし雑賀衆も全国統一を目指す豊臣秀吉の前にはさすがになす術がなく、1585年に拠点となった太田城(現在の和歌山県和歌山市)を落とされます。
これにより傭兵集団としての雑賀衆は姿を消し、構成員は農民に戻ったり鉄砲の専門家として各地の大名に仕えたりして生活していきました。
このように、戦乱の時代に育まれた雑賀衆の傭兵稼業は、紀州の荒地から生まれ、戦国の戦場で栄華を極めました。
戦乱の時代と彼らの武勇が織りなす物語は、荒れ狂う戦国時代の縮図そのものです。
参考文献
國學院大學学術情報リポジトリ
https://k-rain.repo.nii.ac.jp/records/1576
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。