
2020年11月17日、カワサキから日本最古級のスポーツバイクメーカーである「メグロ」が「MEGRO K3」という800cc空冷バーチカルツインとともに復活した。そこで今回は、まったく「メグロ」を知らない人もさくっと5分でわかるよう、その歴史をかいつまんで解説してみよう(写真・資料提供:カワサキモータースジャパン)

1924年(大正13年)、村田延治と鈴木高治というふたりの革新者によって、東京市大崎区目黒村(現品川区)にて創業した『メグロ』(目黒製作所)。
当時自動車は稀で、ハーレーやインディアン、イギリスのアリエルやAJSのエンジンを載せた、後ろ二輪の3輪車がトラック代わりだった時代だ。そんななか、メグロは三輪車用のトランスミッションを1928年(昭和3年)に初めて国産化し、まずは変速機メーカーとして高い評価を得た。
1932年(昭和7年)には500ccクラスの空冷OHV単気筒を自社開発。他メーカーへの供給を開始した。また、新聞社や雑誌社が主催する競技会等に、独自開発したワークスマシンで出場し実績を積み上げていったのだ。ちなみに、この戦前からの競技会は、戦後オートレースに発展。オートレースでは、トライアンフとともに80年代末まで「メグロ」ブランドのエンジンが使用されていたのは有名な話だ。
1937年(昭和12年)。メグロは自社初の完成車「Z97型」を販売。空冷OHV単気筒500ccエンジンを搭載するZ97型は、のち1956年(昭和31年)の「スタミナZ7」まで続く“単気筒メグロ”の始祖モデルだ。メグロ通は「メグロは単気筒が本領」というが、実際、500ccモデルとしてもっとも長く生産されたのはこの単気筒モデルで、2気筒モデルはメグロの歴史を考えると、50年代中盤に入ってからの「新型車」の部類に入るのだ。このZ型は性能を買われ、白バイとして警視庁に納入されたというから、性能は当時卓越したモノだったといえる。
さて、戦後の物資不足を乗り越え、1950年(昭和25年)に販売を再開したZシリーズに加え、メグロは市場のニーズを反映し250ccの空冷OHV単気筒エンジンを搭載する「ジュニアJ1」を発売した。するとこれが大ヒット。J2、S、S2……S8とモデルチェンジを重ね、1965年のSGまで続くロングセラーとなった(このジュニアスタイルはのち、カワサキの「エストレヤ」に引き継がれることとなる)。


50年代中盤、メグロは500cc単気筒の「Z」、250cc単気筒の「ジュニアJ/S」シリーズに加え、白バイ用に開発された650cc「セニアT」、350cc「レックスY」、125cc「レジナE」と幅広いラインナップを揃えるにいたっていた。

メグロの絶頂は1957年(昭和32年)10月に開催された第二回浅間火山レースだった。メグロはライト級250cc、ジュニア級350cc、セニア級500ccにエントリー。セニア級で1位、2位、4位、5位 と上位を独占。当時、大排気量カテゴリーにおいて、メグロの右に出る者はいなかったのだ。
しかしこのころから、市場で求められる50〜125ccクラスが伸長。小型車を得意とするホンダ、ヤマハ、スズキに対し、メグロは遅れを取るようになる。軽量ハイパワーな2ストロークや、精緻なOHCマシンに対し、メグロも一度はアサマ・レプリカともいえるOHC125ccマシン「F」を出したものの、「高回転型で、メグロらしくない」と市場で拒否されてしまう。また、1960年には単気筒Zの後継となる、2気筒の高性能500ccマシン「スタミナK1」を販売するも、当時そのような大きなバイクを買えるユーザーはごく一部だった。大正から続く長い伝統が、この時期は逆にアダになってしまったのである。



そんなメグロに手を差し伸べたのが、川崎航空機工業(現・川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニー)だった。1960年(昭和35年)に、目黒製作所と川崎航空機工業は業務提携。この提携により、250ccクラス以上は目黒製作所、50~125ccクラスは川崎航空機工業が生産を担うこととなった。大正から続く4ストローク大型車のノウハウは、カワサキに受け継がれることになったわけだ。
目黒製作所はその後、川崎航空機工業と1964年(昭和39年)をもって一体化。同年の第11回東京モーターショーにおいて、「カワサキ500メグロK2」が発表された。開発は、川崎航空機工業に移ったメグロ系技術者との共同で行われ、川崎航空機工業での設計・生産となった。耐久性を高めるために大幅にエンジンを改善、伝統のOHVバーチカルツインとして、最終的に650 W1となり、W3まで長期にわたり生産されることとなった。のち、1999年(平成11年)には「W650」として復刻。その血統は2020年、「MEGURO K3」としてよみがえることとなったのだ。
