12月7日より二十四節気は「大雪(たいせつ)」となりました。暖地や平地では実感はありませんが、北国や高地ではすでに積雪の便りも聞かれます。もっとも「夜」の長さが実感されるこの節気。その最後にあたる七十二候の第三候は「鱖魚群(けつぎょむらがる)」。日本固有種タナゴが淀みに集う、という意味ですが、一般的には「さけのうおむらがる」と読み下し、「サケが川を遡上する時期」と誤った解説をするものがほとんどです。今も昔も日本人は親しみ深いはずのサケのことをあまりよく知らないようです。
なぜタナゴがサケにすり替わったのか?その経緯の謎解き
七十二候とは、一年間を24に分割した二十四節気(一節気は15~16日)をさらに三分割し、初候・次候・末候の三つの期間それぞれにふさわしい自然事象や生物のふるまいをあてはめて、季節の移ろいを可視化しやすく表現したものです。中国唐代の長慶宣明暦で編纂されて日本にも伝わり、初の独自暦である江戸時代前期の貞享暦が編纂されるにあたり、日本独自の「本朝七十二候」が考案記載されます。そして、江戸中期の宝暦暦で再度内容に改変が施され、これが現代まで受け継がれています。
大雪の末候は、宣明暦の「茘挺出(れいていいずる) 」が貞享暦で「水仙開(すいせんひらく)」に、そして宝暦暦で「鱖魚群(けつぎょむらがる)」へと置き換えられました。
「茘」とは諸説ありますがラッキョウのことで、ラッキョウの葉芽が生ずる時期であることを意味し、これが和暦ではよく似た葉をもつ水仙の花に変更され、さらに「鱖魚(けつぎょ)」に変更されています。
結論からまいりますと、鱖魚とは、宝暦暦編纂に携わった中心人物であった江戸中期の暦算家・随筆作家の西村遠里自身が著書『天文俗談』(1758年)で、宝暦七十二候について逐一その意味を解説しており、そこで、
鱖魚群は妾魚(たなご)むらがることなり
と、鱖魚はタナゴのことであると解説していますから、議論の余地はありません。関東の湖沼河川を中心にして、東北南部付近まで分布する日本固有種であるタナゴ (Acheilognathus melanogaster) はコイ科タナゴ亜科タナゴ属に属する小型の淡水魚。冬期には、春の繁殖にそなえ、静かな淀みに集合して越冬する生態があります。
類書『和漢三才圖會』(寺島良安 1712年)では「たびらこ」の項目でタナゴの一種アカビレタビラを紹介し、
妾魚 婢魚 俗に太比良古と云ふ。
と記述しています。「妾」「婢」はともに下働きの女性を卑しめて使う言葉であり、七十二候の格式にふさわしくないとの理由からでしょう、宝暦暦ではあえて「鱖魚」と表記したわけです。
しかし、鱖魚(けつぎょ)という名の魚は実際にいて、ここで混乱が生じることになりました。
ケツギョ(Siniperca chuatsi)は中国大陸東部の黒竜江省~広東省にかけて分布するスズキ科の淡水魚。黄銅色から白銀の地にシルバーグレーの美しい雲形の模様をもち、美味であることから珍重される高級魚で、日本には生息しません。
ではなぜタナゴをケツギョに例えたのでしょうか。ケツギョと同じスズキ科の海洋魚で「ウミタナゴ」という魚がいます。全国の海の沿岸域の岩礁に普通に生息し、タナゴのいない地域ではこのウミタナゴを「タナゴ」とも言います。珍しい卵胎生(体内で卵が孵化し、幼魚となってから親の中から出てくる生態)の魚です。ケツギョ→ウミタナゴ→タナゴという転化により、「妾魚」を「鱖魚」とするアイデアが生まれたものと思われます。
さて本家のケツギョ、中国では「桂花魚」「桂魚」といった別称があり、「桂」の「圭」の部分が鮭と重なるため、いつしかこれがサケと混同されていき、江戸時代後期ごろには鱖魚をサケとする説が一般に流布していたようです。年末も近づき、新巻鮭などのサケの調理品が食卓にのぼる時期だけに「鱖魚群」=「サケが群れを成して川を遡る」という読み下しがイメージとして定着しやすかったのかもしれません。
けれども、サケが産卵のために川を遡る時期は幅があり、12月もないとは言えませんが、9月からはじまり、ピークは10月から11月です。12月後半にかかる大雪末候にサケの遡上を入れるのは、「季節外れ」感が否めません(たとえるなら『ヒマワリは10月の花』というようなものです)。
「鱖魚群」がサケの遡上を指したものではない、ということはもし遡上時期を知っていれば容易にわかる話なのです。
寒冷地の内陸に滋養をもたらしたサケの重要な役割
サケ、あるいはシャケと呼ばれる魚類は、サケ目サケ科サケ亜科を単独で構成し、全世界に70種前後が知られています。分布の中心地は太平洋および大西洋の寒帯から亜寒帯で、その大半が遡河回遊魚(川で孵化し、一定期間淡水にとどまったのちに海洋へと下り、成熟すると再び川を遡上して繁殖する習性をもつ魚類)、海に降下せずに一生を淡水で過ごす種や個体も知られています。
日本で古くから「サケ」と呼び習わすサケ科の魚はシロザケ(白鮭 Oncorhynchus keta)で、日本海側では島根県から山口県、太平洋側では千葉県の河川が南限となる寒帯系の魚です。
繁殖のときには生まれた川に必ず戻ってくる強い母川回帰の習性で知られ、ウナギが深海域で孵化し、成長しながら海を北上して日本の川を遡って淡水域で成長し、成熟すると繁殖のために生まれ故郷の深海へと旅立つのと鏡合わせのように、サケは川で生まれ、海で成長し、生まれ故郷の川に戻ってきます。
亜熱帯や熱帯などの低緯度の暖かい地域では、陸地に多くの食料があり栄養豊富で、逆に海は低栄養であるのに対し、亜寒帯や寒帯の寒い地域では、海には栄養となるプランクトン類が豊富なのに、陸地は食料に乏しいというギャップがあり、このため両種は対照的な生態をもつわけです。
秋、日本の川で生み落とされたサケの卵は、二か月ほどで孵化し、卵嚢(ヨークサック)の栄養分で成長しながら川床で過ごして、雪解けする早春に集団で川を下り、海へと進出していきます。
幼魚は日本の海域から離れて、北方のオホーツク海に移動し、以降は水温が極端に下がる冬期にはアラスカ湾などで越冬し、暖かくなると、えさ場となる北方のベーリング海で採餌をして成長する、というサイクルを平均で4年ほど過ごします。
そして体長が60cmを超えて十分に成長すると、自分が生まれた川へと帰郷の旅に出ます。この段階になるとオスは雄性ホルモンのケトテストステロンの作用によって、背中が隆起し、口先が伸びて下側に曲がる独特の形となり、私たちが「シャケ」としてイメージされるあの姿に変貌します。
ため込んだ栄養分を消費しながら海を越え、そして時に堰や滝もある川を水流に逆らって必死に遡上して、上流部で繁殖をします。すべてのエネルギーを使い果たした親魚たちは、数日以内にほとんどが死んでいき、寒冷地の厳しい環境の内陸の生物たちの貴重な食料源となる役割も持ちます。
鮭と酒。神からの恵みであるサケは古来重んじられてきました
サケの語源について、現在有力とみなされているアイヌ語説の他、「身が筋に沿って裂けやすいから」「酒に酔ったように赤みのある身の色から」という説があり、あまり支持はされていません。実際これだけですと、単なる語呂合わせ程度の思い付きのように思われます。「身が裂けやすい」というのなら、どんな魚も筋に沿って裂けやすく、殊にタラなどはもっとも崩れやすいものです。
しかし、古来神事と関わり深い呪具であった「酒」と、サケが同音を持つということの意味は無視すべきではありません。「裂ける(裂く)」は、花が「咲く」などと同様、閉じられていたものを切り開くという意味があります。
世界を成り行きに任せていれば、大塊は崩れて粉々に、高きにあったものは低きに沈み落ち、熱いものは冷え、光は失われ、事物・世界は「虚無」へと消滅していきます。
生命活動とは、その「ことわり」に対し「逆らい」、低きを高きへ引き上げ、崩壊するものを凝縮結集し、熱と光を注ぎ込む、萌え「盛(さか)る」パワーそのものだと言えます。小正月に行われる火祭り「どんど焼き」は、不死鳥である神「ミサキ(イサク)」が火にくべられて空高く舞い上がって復活する儀式が原型であると以前当コラムで解釈したことがあります。「ミサキ」と「酒」「鮭」。酒を飲めば、人は気持ちが高揚し体が熱くなり、一種のトランス状態となるため、古代には祭儀に用いられました。それは「栄える」「盛ん」「盛る」といった言葉で表わされる表象です。先述した香取神宮の大饗祭の鳥羽盛りは、燃える炎を形作っているようにも見えます。
冷たい海のかなたから故郷の川へ、「逆巻く」急流を切り「裂き」ながら「さかのぼって」ゆくサケの雄姿を、古代の人々は感嘆と畏敬を込めて「さけ」と名付け、再生の日である正月にいただいたのではないでしょうか。
定番おかずのサケ、と言って思い浮かぶのは?
このように、近代以前にはサケ漁といえば遡上魚を捕獲する漁でしたから、サケといえば加工した塩蔵品を正月前後の冬に食べるか、燻製や練り製品として食べるものでした。
それが、戦後沖合に出ての大規模なサケ漁が盛んとなると、シロザケは朝ごはんのおかずやおにぎりの具など、家庭の食卓の定番おかずとして消費が拡大します。
1985年ごろまでは日本系シロザケの塩蔵品(塩ジャケの切り身)がサケ・マス消費の大半を占めていました。
しかし1977年の「二百海里協定」(海洋資源を守る名目で、自国の海岸線から370.4kmの海域を排他的経済水域とする取り決め)、さらにサケについての母川国主義(サケの生まれた故郷の川のある国に公海域におけるサケの所有権が優先されるとする考え方)が主張されると、サケ漁を取り巻く状況は大きく変わり、日本は養殖が困難なシロザケの代わりにチリに養殖ベニザケの拠点を置いてサケ需要に備え、1990年代には国内消費の半分がチリ産ベニジャケになります。
さらに2000年代前後からは、ロシアやカナダ産の養殖ギンザケ、トラウトが、2010年代ごろからはノルウェー産の養殖アトランティックサーモン(大西洋マス)の輸入量が増大します。
今やサケと言えば、焼いた塩ジャケではなく、スモークサーモンのサラダやカナッペ、キングサーモン(マスノスケ)のムニエルなどの洋風料理、あるいはサーモンの握りずしなどの生食が主流となったとさえ、言えるのではないでしょうか。
さらに、一時期と比べて漁獲量が落ちたにも関わらず、国内のシロザケ消費量は落ち込んで供給過多となり、中国に輸出し加工品として再輸入するなどされています。
食文化が時代につれて変化していくのは仕方のないことです。しかし、北から泳ぎ来るシロザケの川の遡上が、国土の滋養となり、命をはぐくんできたのです。シロザケを食べる食べないにかかわらず、彼らが遡上できる川を整備して迎え、維持持続していけることを願います。
参考・参照
サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)マルハニチロ
気候変動とサケ資源について
北太平洋におけるサケの資源状況
山倉の鮭祭り:香取市ウェブサイト:香取市観光サイト