クリスマスも終わってしまい、お正月の準備に追われている人が多い中、街を歩けば、なんとなく誰もがせわしない雰囲気で、歩く早さもいつもより早足のように感じますね。
年末の風物詩といえば、この時期各地で開催される「第九」のコンサート。さらに「第九」といえば第四楽章の「歓喜の歌」が有名ですが、この「第九」、当時でいえばあまりにも革新的なスタイルだったのです。今では世界で愛される「第九」ですが、いったい何が“斬新”だったのでしょうか? 「第九」に込められたベートーベンの想いとは?
難聴でも曲をつくり続ける執念
一般的に「第九」と愛称のように親しまれていますが、正式な曲名は「交響曲第9番ニ短調作品125」です。第9番であることから省略されて「第九」と呼ばれるようになりました。
その「第九」はベートーベンが作曲した最後の交響曲として知られます。
※ドイツの作曲家/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年〜1827年)
初めて発表されたのは1824年のこと。でしたが、このころのベートーベンはすでに耳が聞こえない状態に陥っていたのです。そんな状態ですから「第九」の初演といっても、みずから指揮をとることはできません。会場にはいたものの、曲が終わったことにすら気づかなかったといいます。この当時の補聴器はラッパのように大きいもので、それを耳に当てながら曲をつくっていた当時のベートーベン。「第九」は60分を超える壮大な交響曲ですから、作曲に費やした時間も相当な月日だったことでしょうが、ましてや耳が聞こえない中での作曲は、ベートーベンだからこそなし得た偉業といえるでしょう。
また、聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたベートーベンに対し、フランスの作家ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれたことも、今に伝えられています。
前代未聞の試みだった「歓喜の歌」
交響曲の作曲に相当な時間と労力を費やすのはもちろんですが、耳が聞こえない中での作曲は想像を絶します。作曲するだけでもすごいことですが、ベートーベンのすごさはこれだけにとどまりません。
「第九」には前代未聞のチャレンジが加えられていました。「第九」の第四楽章「歓喜の歌」は合唱が取り入れられました。ちなみに、第一から第三楽章まで合唱は入っていません。曲調も異なり、第四楽章に入ってようやく合唱団が登場して、高らかに「歓喜の歌」を歌い上げるのです。この部分を伝えたいがための第一から第三楽章といってもよいでしょう。まさに、ベートーベンの想いは「歓喜の歌」で“大爆発”することになるのです。
「歓喜の歌」に込められたベートーベンの想い
「歓喜の歌」の歌詞はベートーベンが書いたものではありません。ドイツの詩人であるシラーの『歓喜に寄せて』という詩をもとにつくられています。ベートーベンが書き加えたのは冒頭の部分のみ。※ドイツの詩人/ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(1759〜1805年)
「おお友よ、このような音ではなく心地よい歓喜に満ちた歌を歌おう」
という歌詞のみです。
「このような音」というのは第一から第三楽章のことと推測されますが、今までの音楽を否定しているところもベートーベンらしいところといえるでしょう。
以前からシラーの詩に共感していたといわれるベートーベン。シラーの『歓喜に寄せて』でベートーベンが伝えたかったことは、「友人や愛する人のいる人生の素晴らしさ」です。今では、自由と平和の象徴といった意味合いで世界各地で演奏される「第九」。作曲が困難な状態でも、どうしても伝えたい想いを詞と音楽とともにつくり上げたのでしょう。
── 時を越えて受け継がれる「第九」。ベートーベンの想いを感じて、日本語詞でも読んでみてはいかがでしょうか?