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【阪神】吉田義男さん座右の銘「徹」の理由 不振の苦しみの中すがった参禅から人生貫く信念得る


阪神タイガースの名遊撃手であり、監督として1985年に球団初の日本一を達成した吉田義男さんが91歳で亡くなりました。吉田さんは「徹」という言葉を座右の銘とし、どんな状況でも逃げずに立ち向かう姿勢を貫きました。この言葉は、大徳寺の盛永宗興老師から授けられたものであり、その影響で吉田さんは自らの車を手放し、家でトス打撃に励むなど徹底的に野球へ取り組むようになりました。彼の背番号23は永久欠番となり、阪神での監督としても球団史に名を刻みました。吉田さんは生涯にわたり批判を受け止め、責任感と決断力で野球界に貢献しました。

吉田家にある大徳寺の盛永宗興氏から授けられた直筆の「徹」(撮影・寺尾博和)

<吉田義男さんメモリーズ1>

「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが今月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。第1回は座右の銘を「徹」とした理由に迫ります。

   ◇   ◇   ◇

吉田さんの出棺を前に妻篤子(とくこ)さんが故人の左頬をなでると、ひつぎの扉が閉じられた。そして姪っ子の丸井京子さんが亡き叔父に宛てた1枚の書がかぶせられた。

「徹する 阪神タイガース 23 やすらかに」

背番号23は永久欠番。野球に人生をささげた男の座右の銘は『徹(てつ)』--。サインを求められると必ずといっていいほど、この1文字を添えた。

現役時代の吉田さんは8年目のシーズンを終えた1960年、知人の紹介で京都市北区の大徳寺に参禅するようになった。

すでにオールスター戦出場、ベストナイン賞の常連で、2度の盗塁王を獲得するなど、球界を代表する遊撃手だったが、この年初めて打率が2割5分を切った。「ほんと苦しかったんです。なにかにすがりたかったんでしょうな」といった先にたどり着いたのが大徳寺だったのだ。

かつての巨人V9監督・川上哲治氏が正眼寺(岐阜)、最近はWBC世界一監督・栗山英樹氏が円覚寺(神奈川)に参禅した。吉田さんも厳しい心の修行で無の境地を体得したのだ。

その大徳寺で出会った盛永宗興老師から授けられたのが「徹する」だった。何事にも集中し、徹底的に考え抜き、突き詰めることが、いかに大切かを教えられた。

どんなに苦しく、追い込まれたときも、決して逃げずに立ち向かうのだと。吉田さんは高い境地にあった盛永老師の言葉に心を打たれたという。

それまでの迷いが吹っ切れた吉田さんは、たちまち自分の車を売り払った。自宅のガレージにネットを張ってトス打撃をする空間を作るためだ。

もう車がないから、阪急今津線と阪神電車を乗り継いで甲子園に通った。そして試合を終えて帰ると、篤子さんにボールを投げてもらって、ひたすら打ち続けるのだった。

62、64年でリーグ優勝に貢献した吉田さんは、米大リーグから絶賛されるほどの名ショートになった。そして計3度、8シーズンにわたって監督を務め、85年は球団初の日本一監督に上り詰めた。

今年が創立90周年の球団史において、日本一監督が吉田さんと岡田彰布氏の2人しか存在しないのは異例といえる。それだけ阪神で務める監督業は過酷ということだろう。

盛永老師からは『灰頭土面(かいとうどめん)』といった教えも受けた。吉田さんは「逃げれば楽になりますわ。でも頭から灰をかぶり、顔が泥だらけになっても、最後まで仕事をまっとうするのが人の道と思っています」と語っていた。

吉田さんがマスコミからの批判を真っ向から受け止めたのは、阪神監督の宿命を背負ったからだ。チームが負け続けて最下位に低迷しても、途中で放り出すことは信念に反する。おのれが責任をとっての解任だった。

いかなることにも逃げなかった。それが吉田さんの『徹』だった。病院で息を引きとった後、自宅に帰って寝かされた座敷の頭上の壁には、終生の師だった盛永老師の直筆、吉田さんが最後まで貫いた『徹』が掲げられていた。【寺尾博和】

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日生まれ、京都府出身。山城高から立命大を経て、53年阪神入り。卓越した遊撃の守備力と俊足で頭角を現す。62、64年にはセ優勝に貢献。69年に現役引退。遊撃手としてベストナイン9度はプロ野球最多。現役時代は167センチ、56キロ。評論家活動を経て、75年に阪神監督に就任し3年間指揮を執った。85年に2期目の阪神監督となり、同年初の日本一に導く。同年正力賞受賞。87年に退任する際、現役時代の背番号23が永久欠番に。退任後は野球フランス代表監督。92年野球殿堂入り。97年に3度目の阪神監督に就任し、翌年98年限りで勇退した。その後は日刊スポーツ客員評論家として、阪神を中心に球界へ愛情あふれる提言を続けてきた。

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