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卓球が変えた北京の風=中国初の世界的行事―日中国交正常50周年


 日中国交正常化に大きな影響を与えたのは、1971年世界卓球選手権名古屋大会を契機とした「米中ピンポン外交」だったが、地ならしをしたのは10年以上前に始まっていた日中卓球交流だった。最前線の卓球人が見た歴史の転換点とは―。  ◇  ◇  ◇  56年世界卓球選手権東京大会に、中国がやって来た。中華人民共和国成立からまだ7年。東西冷戦の中、初めて出るスポーツの国際大会だった。  練習も非公開。無冠に終わったが、実力は印象付けた。59年ドルトムント大会では容国団が男子シングルスに勝ち、初のタイトルも獲得する。  そして61年大会は北京で開かれる。中国が全ての分野を通じて初めて行う世界的行事だった。  54、56年世界王者の荻村伊智朗、59年世界女王の松崎キミ代(現姓栗本)ら日本選手団は、香港から深センを経て足かけ4日で北京入り。途中、荷物を持って徒歩で橋を渡った。  松崎は「ガヤガヤした香港からいっぺんに空気が変わった。革命歌が鳴り、数メートルおきに解放軍の兵士がいて、私たちのおしゃべりも止まりました」と回想する。  中国は反日感情の嵐だった。日本が中国以外の相手と対戦する時でも、北京工人体育館を埋めた1万5000人の観客は相手の応援。審判は全員中国人で、信じられない判定の連続だった。  中国との女子団体決勝。1―2の崖っぷちで回ってきた4番シングルスで、松崎はエース邱鐘恵を破る。「私の卓球人生一番かもしれない会心の試合」。日本は続くラストで伊藤和子が勝ち、敵地で3連覇を果たした。  だが、直後に中国男子が日本の6連覇を阻んで初優勝すると、大騒ぎになって松崎はカメラマンに突き飛ばされた。  団体戦で体力を使った日本女子は、大会後半の個人戦で苦戦。シングルスは松崎のベスト4が最高だったが、帰国前日、周恩来首相が日本選手団のために歓送会を開いた。  冒頭で40分間のスピーチ。「日本の政治家に話すような」国家の展望などを語り、「(池田勇人)首相が決断すれば、すぐに国交を正常化する」と熱弁を振るった。  その最後に周首相が松崎を称賛した話は、卓球界の語り草となっている。「あなたは中国人民に深い印象を残した。いつも笑みを絶やさず、勝っておごらず、負けてもくじけない姿勢に中国選手は学ばなければいけない」(敬称略、役職などは当時)  ▽松崎キミ代 まつざき・きみよ。現姓栗本。1938年生まれ、香川県出身、専修大出。世界選手権で59、63年女子シングルスなど7タイトル獲得。全日本選手権優勝3回。97年世界卓球殿堂入り。右ペン・前中陣攻撃型。 (了) 【時事通信社】 〔写真説明〕インタビューに答える栗本(旧姓松崎)キミ代さん=9月、東京都内 〔写真説明〕世界卓球選手権北京大会の前夜祭で周恩来首相(左から2人目)と初めて会った松崎(現姓栗本)キミ代選手(同3人目)=1961年、北京市(栗本キミ代さん提供)
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