
「あの日、父は腹巻きに収めていた札束で小さな仏壇と仏具を買いました」
広島市西区の金紙製造会社の元社長、久永洪(ひろし)さん(90)の自宅には原爆投下後、父親の清次郎さんが避難先で購入した仏壇が今も置かれている。原爆で亡くなった清次郎さんの母シゲさんを弔うため、混乱の中で買い求めた仏壇。久永さんは父の祖母への愛情を思い、戦後、自社の金紙を内側に貼り直して大切にしてきた。
1905年創業の「歴清社」は、伝統工芸技術の箔押(はくお)しを用いた金紙を製造。久永さんは4代目として家業を継ぎ、社長退任後も昨秋まで相談役を務めた。
45年8月6日、久永さんの家族は爆心地から西に約2・2キロの自宅と工場で被爆した。久永さんの母親は、爆風で割れたガラスの破片で左腕を負傷した清次郎さんを抱えて避難したという。
疎開先にいた久永さんは5日後、迎えに来てくれた両親らと再会した。大八車で運ばれる途中に亡くなったというシゲさんは火葬され、既に骨になっていた。
久永さんも8月14日、知り合いを頼って現在の広島市北部に向かう途中、市中心部を歩いて入市被爆した。道ばたに放置された遺体にウジがわき、異臭を放っていたのを覚えている。自宅と工場は、煙突1本と鉄筋コンクリート造りの倉庫を残して全て焼けていた。
避難先に着くとすぐに、清次郎さんはもしもの時に備えて腹巻きに入れていた札束で小さな仏壇と仏具を買った。シゲさんの初盆のためだった。「そんな時でも、おやじは祖母の仏壇を買わんといけんと思ったんでしょう。親子の愛を感じました」と語る。
戦後、歴清社は屋根の防水シートや塗料の製造でしのぎながら、数年後に金紙の製造を再開し、海外に販路を見いだした。本物の金箔のように年月を経ても変色しないため、神社仏閣だけでなく、国内外の有名ブランドショップや高級ホテルなどの内装にも使われている。
アーティストの作品の素材や住宅のインテリアなども手がけ、今や広島が誇るオンリーワン企業となった。「あの焼け野原から、よくここまで復興したなあ」。原爆の爆風と火災に耐えた工場の煙突と倉庫は今も現役で、倉庫は広島市の被爆建物リストに登録されている。【井村陸】