東日本大震災、そして福島第1原発事故から12年がたつ。全町避難を強いられ、水素爆発で飛散する大量の放射性物質から逃れるように、役場機能を埼玉県加須市に移したのが福島県双葉町。約7000人の町民の先頭に立ったのは町長(当時)の井戸川克隆さん(76)だった。政府が「原発回帰」へとかじを切るなか、市内で避難生活を送る元町長は「許せない」と憤然と語った。【隈元浩彦】
「国はいまだ正面から捉えていない」
――原発事故から12年が経過します。
◆国はいまだ原発事故を正面から捉えようとしていない。それどころか責任逃れのため隠蔽(いんぺい)や偽装に走っている。国家の危機だ。
――具体的には?
◆事故直後、状況が分からないまま、枝野幸男官房長官(当時)は「直ちに健康に影響を与える数値ではない」と言った。あの言葉で福島県民をだまして、県内に留め置かせた。一方、米国は自国民を避難させた。日本人と米国人はどこが違うのか。ここからがうその始まりだ。
事故前まで国は、1年間に一般公衆が浴びる放射線量限度について1ミリシーベルトとしていた。県原子力広報協会が作成したパンフレットにも明記されている。ところが、事故後は20倍の「年20ミリシーベルト以下なら安全」と基準を引き上げた。偽装でしょう。
――旧ソ連のチェルノブイリ原発事故(1986年)で制定された被災者補償法は、年5ミリシーベルト超の区域は住民の移住が義務づけられています。
◆日本はでたらめ。2011年12月16日、当時の民主党政権は原発事故の収束宣言をした。法的根拠のない言葉であり、ごまかしだ。翌年3月、町長として第1原発に入った。東電幹部に「事故収束したのか」と問うたら「してません」。いいですか。そもそもまだ原子力緊急事態宣言が発令中なんだ。「宣言」が解除されての「収束宣言」ならまだしも、「収束」したかのように国は装っている。
――被災自治体で唯一、役場機能ごとの全町避難を決断しました。
◆建設、メンテンナスの仕事の経験があり、2号機の建設に携わったこともある。原発についても知識を蓄えていた。震災翌日、原発の爆発で飛んできた断熱材を浴びた。たいへんなことになると思った。県の対策本部は機能停止。一時は海外への避難も考えた。
――加須に落ち着かれたわけですね。
◆一致団結と思ったが賠償問題では町民から怒られた。「他町がもらっているのに、なぜ双葉は遅いのか」と。賠償基準である国の「中間指針」は欠陥だらけだからと言っても理解されなかった。
――22年8月末、双葉町は11年5カ月ぶりに一部で居住可能になりました。
◆町にはよく戻るけど、バーチャルリアリティーだね。悔しい。原因は分かっている。津波で原発が壊れたのが原因ではない。壊れないような原発を作らなかったから事故は起きたんだ。許せない。
国の原発回帰「何も学んでいない」
――岸田文雄政権は「原発回帰」にかじを切りました。
◆腐りきっている。それも国会の議論を経ずに閣議決定でやってしまった。電力料金高騰などと、メディアにあおられ、国民はその気になってしまう。
福島の事故から何も学んでいない。立地自治体の責任でいえば、福島は初の事故だったから被害者でいられたが、再度過酷な事故が起きればそうはいかない。稼働を認めた自治体の責任が問われる。なぜ気付かないのか。
――除染作業で出た汚染土を再利用する実証事業の候補地に所沢市が挙がっています。
◆廃棄物置き場の設備工事をしていた経験があるから分かるが、事故前は1キロ当たり放射性物質が100ベクレルを超えたらペレット缶で厳重管理していた。その基準値を80倍に引き上げて、国は8000ベクレルまでは安全だと言う。誰が信用するのかと思う。応分の負担などと言うのならば、双葉につくった中間貯蔵施設を含めて、東電のある東京に持っていくのが筋だ。
――国、東電を相手に損害賠償訴訟を15年に起こしています。
◆官製の裁判では、刑事罰を求めても無罪だ。損害賠償を通して、国の行政過誤、企業の責任問題を追及するしか手立てはない。苦しんでいる双葉町民と子孫のためにやっている。民をだまし、大地と海を汚した、東電と政府の責任を問う。
記者の一言
憤怒のかたまりだった。取材中に何度か雷が落ちた。許された写真撮影は数枚だけ。口元が緩むことはなかった。メディアへの深い不信感がうかがえた。「国家は国民をだます。お先棒を担ぐのがマスコミだ」と言った。
「加須に避難した直後、繰り返し問われたのは『なぜ、埼玉に来たのか』と。こっちが教えてほしい。なぜ、こんな事故が起きたのか。それを追及するのがメディアだろう」
事務所の壁全面には分厚いファイルが並ぶ。原発事故関係の法令集、公文書などだ。原発事故の「専門家だ」とも。国、東電を相手に法廷闘争を続ける。
裁判情報は「井戸川裁判を支える会」のサイト(http://idogawasupport.sub.jp/)に詳しい。意見陳述書には「被害ではないと決めつけた方には、私たちと同じ放射能を被(かぶ)ってみていただきたい」とつづる。それは石牟礼道子さんが「苦海浄土」で書き留めた「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順番に、水銀母液ば飲んでもらおう」という水俣病患者家族の呪詛(じゅそ)の言葉に重なる。
いどがわ・かつたか
1946年福島県双葉町生まれ。水道設備会社の経営などを経て2005年、双葉町長選に初当選した。2期目の11年3月、福島第1原発事故に遭遇、全町の県外避難を決断した。13年、町長職を退任。避難先の加須市内で「脱被ばく東電原発事故研究所」を主宰している。