女性誌のセックス特集はそうめずらしくなくなった昨今においても、やはり『an・an』は別格。そう思わされた一件がありました。コンビニの成人向け雑誌、ストレートにいえばエロ本の陳列に反対している層が、同特集号が並べられていることに文句をいわないのはおかしい、というブログやツイートが話題を集めたのです。
■『an・an』セックス特集号はエロ本ではない
筆者はここ数年たびたび、『an・an』のセックス特集号(以下、同号)にコメントを寄せています。ですがその内容すべてに賛同しているわけではなく、真に女性のためになっているとは言い難い内容が含まれていたり、エビデンスのない情報が掲載されていたり、改善の余地はたっぷりあります。けれど、同号はエロ本ではありません。性を取り扱っている=エロ本というのはあまりに短絡的です。
コンビニなどに置かれる是非が問われるのは、たとえば「東京都青少年の健全な育成に関する条例」以下の部分に該当するような出版物で、同条例ではこれらを“不健全な図書類”としています。
青少年に対し、著しく性的感情を刺激し、甚だしく残虐性を助長し、又は著しく自殺若しくは犯罪を誘発する
強姦等の著しく社会規範に反する性交又は性交類似行為を、著しく不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を著しく妨げる
同号は、人によってはたしかに性的感情を刺激されるかもしれません。でも性的感情とは本来、誰にとっても健全なもので、それが極端で、かつ条例に示されているように残虐性や自他への危害につながる場合は問題ですが、同号にそんな内容は見当たりません。また、後者のような描写や表現もまったく含まれていません。
「コンビニに置いてほしくない」と一般にいわれる雑誌やコミックを私も読んだことがありますが、女性が未成年であることを連想させるもの、女性の身体の一部を極端に誇張したもの、同意のない性行為や犯罪となるような行為を示すようなものも少なくなく、明らかに“不健全な図書類”であるものがほとんどです。同号を、これらと同列に並べるのは筋違いとしかいえません。
■『an・an』セックス特集号は「ポルノ」ではなく「エロス」
聞いたところによると、世界では「エロス」と「ポルノ」を分ける考えがあるそうです。エロスは相手を思いやり、コミュニケーションを取り、互いを満たし合う行為で、ポルノは相手を搾取したり傷つけたりしながら、一方的に欲望を発散すること。同じ「性」に関わる表現でも、その内容は真逆です。同号にもツッコミどころは多々あるものの、基本的には「エロス」を目指す内容です。
「ポルノ」について、個人的には「暴力」と呼びたいです。どれだけひどい暴力が含まれていても表現の自由は保証されるべきと主張する人はもちろん、「性」がつくとすべていかがわしいもの、隠さなければいけないものと思っている人もまた、両者を一緒くたにしているといえます。
メディアにおいて両者の境があいまいになると、どんなことが起きるでしょう。たとえば筆者が携わっている某ニュースサイトで、巨大検索エンジンが提供する広告配信サービスによって一部の記事が「アダルト認定」されるという事態が発生しました。こうなると関連用語を検索しても上位に出てこないので、サイトを訪れる人が劇的に減り、損失となります。
けれどそのサイトには、ポルノは含まれていません。性暴力、セクシャルハラスメントの問題やセクシャルヘルス、セクシャルマイノリティ、セックスワーカーにまつわる記事の一部が、そう認定されたようです。
いま、性について語られ、議論され、伝えられなければいけないトピックは非常に多いと感じます。こうしたことが以前より語られやすくなったのは、ネットメディアの台頭によるものだという実感もあります。が、巨大検索エンジンにアダルト認定されるリスクがあるとなると、媒体は「じゃあ、この種の記事は控えよう」と判断します。
セックス、セクシャルという語がつくものすべてをアダルト認定し“見ちゃいけないもの”にする、つまりポルノ(暴力)と同列に扱うことに、筆者は異を唱えていきたいです。
エロスと暴力の境目があいまいであることは、さらに切実な事態にもつながります。レイプや強制わいせつという苛烈な暴力行為をしておきながら、「これはセックスなんだから、女性も楽しんでいる」と思ったり。卑猥、いかがわしいという理由で、子どもに性教育をしなかったり。教育を受けていないがために暴力にさらされる、被害に気づかずにさらに深刻化する、恥ずかしいことだと思い込んで助けを求められない……と悪いスパイラルを引き起こします。
『an・an』から話がだいぶそれましたが、メディア側だけでなく受け取る側にも性と暴力、エロスとポルノを分けて考える習慣を身につける必要があるのではないでしょうか。コンビニなどで販売すべきでないのはどれか、どちらなら販売してもよいのか、それともどちらも販売すべきでないのか……の議論は、それに基づいてなされるものだと考えます。