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脳電極により男性は数十年ぶりに喜びを体験した


アメリカのミネソタ大学(UMN)で行われた研究により、30年以上も重いうつ病に苦しみ、「喜び」という感情を何年も失っていた男性が、ある日突然、脳への電気刺激によって長年失われていた「喜び」を感じて涙を流したことが報告されました。

この画期的な治療法は、脳の精密なネットワーク地図をつくり、「ネットワークの境界線」に電極を設置することで実現しました。

男性は刺激された直後、「気持ちがいい。不思議な感じだ。感情が溢れる…。これは喜びだ」と表現したといいます。

うつ病は人によって脳の回路の状態が違うため、同じ方法で治療をしても効果にばらつきがありますが、今回の研究は一人ひとりの脳の違いに応じた「オーダーメイド脳刺激療法」が、重症のうつ病に効果をもたらす可能性を示したものです。

一体どのような仕組みで、この男性は失った「喜び」を取り戻すことができたのでしょうか?

研究内容の詳細は2025年8月8日に『PsyArXiv』にて公開されました。

目次

  • 個別にねらう脳刺激の出発点
  • 回路ごとの反応と喜びの涙
  • 患者ごとに“うつ病の地図”を作成

個別にねらう脳刺激の出発点

個別にねらう脳刺激の出発点
個別にねらう脳刺激の出発点 / Credit:Canva

うつ病は誰にとっても身近に起こりうる心の病ですが、中には薬や従来の治療法がまったく効かない「難治性うつ病」の人もいます。

このような治療抵抗性うつ病の患者さんに対して、近年は脳に電極を埋め込み直接電気刺激を与える脳深部刺激療法などが試みられてきました。

脳は数百億個もの神経細胞が電気信号で情報交換する臓器です。

そのため、うつ状態に対しても電気で脳を刺激すれば気分を改善できる可能性が注目されてきました。

しかし、これまでの脳刺激治療は平均的な座標を目安に同じ場所をねらう方法が主流で、個人差を十分に考慮できませんでした。

人によって脳の配線や不調の箇所が異なるため、「一律のやり方では効いたり効かなかったり」というムラが生じていたのです。

そこで研究チームは「患者一人ひとりの脳の状態に合わせて最適な刺激場所と方法を個別に見つければ、もっと確実にうつ病を治せるのではないか」と考えました。

実際、うつ病の一部の人ではサリエンスネットワークが広がり、DMNやFPNの領域が小さく見えることが報告されています。

言い換えれば、うつ病では脳内の「配線図」に乱れが生じているのです。

そこで今回の研究ではまず脳の精密な地図を作成し、うつ病で変調をきたしているネットワークを特定しました。

次に、そのネットワークに対応する脳部位に電極を正確に配置し、刺激して症状を改善しようと試みました。

まさに「脳のナビ地図」を作って、そこだけピンポイントで「元気スイッチ」を押すような新しいアプローチです。

この方法なら、人それぞれ異なる脳の不調箇所を直接狙い撃ちできるため、これまで治らなかった重いうつ病にも効果が期待できます。

研究チームの目的は、この個別化脳刺激療法によって、今まで救えなかった難治性うつ病患者さんを救うことでした。

回路ごとの反応と喜びの涙

回路ごとの反応と喜びの涙
回路ごとの反応と喜びの涙 / Credit:Canva

今回治療を受けたのは、アメリカに住む44歳の男性です。

彼は13歳の頃から重いうつ病を発症し、その後30年以上も苦しんできました。

入退院を繰り返し、これまでに19種類もの抗うつ薬を試しましたが効果はなく、電気けいれん療法(ECT)を3コース受けましたが、長続きする改善はありませんでした。

絶望した彼は自ら命を絶とうとしたこともあり、生きる希望を完全に失っていたのです。

研究チームはこの男性を「TRD-1」と呼び、最初の治療対象者に選びました。

TRD-1さんはあらゆる従来治療が効かなかった「理想的なケース」(逆に言えば非常に深刻なケース)でしたが、もしこの人で新しい治療が成功すれば他の患者にも希望が持てる――そう考えての挑戦でした。

まず研究者たちはTRD-1さんの脳の配線をMRIなどで詳細にスキャンし、コンピューター上に精密な脳内ネットワーク地図を作りました。

その結果、この男性の脳では「サリエンスネットワーク」と呼ばれる回路が異常に大きく広がっていることがわかりました。

サリエンスネットワークとは、平たく言えば「何が大事か」に注意を向ける脳の回路で、本来は限られた領域にあるものです。

それが彼の場合は通常の約4倍もの広さにまで肥大化し、脳の前頭葉の広い範囲を占拠していました。

そのせいで、本来なら感情や思考を司る他のネットワーク(デフォルトモードネットワークや前頭頭頂ネットワーク)が圧迫され、小さく縮こまってしまっていました。

研究チームは、このような脳内ネットワークのアンバランスこそが彼のうつ病を引き起こす要因ではないかと考えました。

そこで、異常に広がったネットワークに対応する脳の前頭部のエリアをターゲットに定め、脳の表面に薄い電極パッドを設置する手術を行ったのです。

電極が正しく脳内の狙いどころに設置されたあとは、いよいよ電気刺激によるテストの開始です。

とはいえ強い電流を流すわけではなく、極めて弱い微弱電流で慎重に行います。

患者さんの頭には4枚の薄い電極パッドが設置されており、それぞれの電極にはいくつか刺激ポイント(コンタクト)が付いています。

研究者は組み合わせを変えながら様々なポイントに順番に電気刺激を与えては、その都度患者さんの気分や不安、注意力などの主観的な変化を細かく記録しました(患者さんにはどの設定か知らせないブラインド方式で行われました)。

その過程で驚くべき現象が起きました。

ある特定の場所(前頭極という額の奥のあたり)に刺激を与えた途端、TRD-1さんの表情が変わり、「気持ちがいい。不思議な感じだ。感情が溢れる…。これは喜びだ」と話しました。

彼は長い間、感じられなかった『喜び』の感情を突如思い出したのです。

この時刺激していたのは、先ほど異常が見つかったサリエンスネットワークに食い込んで縮小していたデフォルトモードネットワークという回路でした。

脳のこの部分を刺激することで、心の奥底から幸せな気持ちが湧き上がり、思わず涙が出るほどだったというわけです。

研究者たちは、映像で見る限り患者さんが本当に嬉しそうに泣き出したので非常に驚いたそうです。

一方で、同じ電極でも少し位置の異なるポイントを刺激した場合には「不思議と心が静かで落ち着いた感じ」が得られたり、逆に刺激の仕方によっては不安や焦燥感が増すこともありました。

このように、脳のどこをどう刺激するかで気分への効果は良くも悪くも大きく変わるのです。

TRD-1さんの場合、幸せや喜びを感じられるポイントも見つかった一方で、不安が強くなる設定もあり、「すべての刺激がプラスになるわけではない」ことが改めて確認されました。

だからこそ最良のスイッチの押し方を見つける必要があります。

研究チームは、この最適な刺激パターンを見つけるために、機械学習アルゴリズムの一種である『ベイズ最適化法』を活用しました。

簡単に言うと、コンピューターが患者さんの反応データを学習しながら、「どの電極のどの設定なら一番気分が良くなるか」を賢く探っていくのです。

手探りでスイッチを押すのではなく、AIという頼れる助手がベストな組み合わせを導き出してくれるイメージです。

TRD-1さんには手術後まず数日間かけて集中的に様々な刺激を試し、退院後も毎月通院して微調整を続けてもらいました。

その際、患者さん自身にはどの設定がオンになっているかわからないようブラインドテストを行い、公平に効果を評価しています。

例えば日記のように毎日の気分や睡眠時間を記録してもらい、どの刺激設定のときに調子が良いかをデータで比べました。

こうして約半年ほど最適化を繰り返した結果、ついに「これだ!」という刺激パターンが絞り込まれました。

手術から7週間(約1か月半)ほど経つ頃には、TRD-1さんは抱えていた自殺念慮(死にたい気持ち)が完全に消失しました。

さらに手術から9か月ほどで、うつ病の症状がほとんど感じられないレベルにまで回復したのです。

医師が評価するうつ病のスコアでも「重度のうつ病」から「ごく軽い症状」まで大幅に改善し、実質的に寛解(症状が治まった状態)に至りました。

驚くべきことに、この良好な状態はその後も維持され続け、治療開始から2年以上たった30カ月後も状態をキープできているのです。

これはTRD-1さんにとって大人になってから最長の「心が健康な期間」となりました。

実験前は集中力や判断力にも問題を抱えていましたが、治療後は認知機能もむしろ向上し、社会生活への意欲も湧いてきたといいます。

まさに、長い間真っ暗だった人生に初めて朝日が昇ったような劇的変化です。

患者ごとに“うつ病の地図”を作成

患者ごとに“うつ病の地図”を作成
患者ごとに“うつ病の地図”を作成 / Credit:Canva

今回の結果は、個人の脳地図に基づいて刺激場所を決める手法が、難治性うつ病の克服に役立つ可能性を示した貴重な事例です。

薬も効かず何十年も苦しんだ重症患者が、脳内の「元気スイッチ」を正しく押すことで、ついに笑顔を取り戻しました。

この成功は医学界にとっても大きな意味を持ちます。

うつ病は非常に多様で、人それぞれ脳の状態が異なるため、「ここを刺激すれば誰でも治る」という単純な話ではありません。

過去の研究でも脳刺激療法は有望視されてきましたが、一律のターゲット(例:脳の特定の一点)を刺激する方法では効果にばらつきがあることが課題でした。

しかし今回のケースでは、患者ごとに“うつ病の地図”を作成しオーダーメイドで治療したことで、これまでにないレベルの改善が得られました。

言い換えれば、「脳のどこに異常があるか」を事前に突き止めてから治療するという精密アプローチが奏功したのです。

もっとも、現時点ではこの治療は一人の患者で成功したに過ぎず、まだ始まったばかりの臨床研究です。

効果が確認できたとはいえ、脳に電極を埋め込む手術は簡単ではなくリスクも伴います。

そのため、この「脳内元気スイッチ療法」は当面、他の治療法が効かない重症例に限定して検討されるでしょう。

また費用や医療体制の問題から、すぐに多くの患者に提供できるわけではありません。

それでも、今回の画期的成果は長い間うつの闇に閉ざされてきた患者たちに新たな希望の光をもたらしました。

研究チームは今後さらに対象者を増やしてこの療法を検証し、実用化に向けて歩みを進めていく予定です。

将来的には、脳の状態に応じて自動的に刺激を調整する「閉ループ刺激」の応用が期待されていますが、本研究はその前段階として、一人ひとりに最適な刺激場所や設定を見つける方法を実証しました。

患者一人ひとりに合わせて脳回路を整える個別治療は、うつ病のみならず他の精神疾患にも応用できる可能性があります。

今回の研究は、「脳の地図を描き、その人だけの治療で心を救う」という新しい医学の扉を開いたと言えるでしょう。

長年苦しんだ末に喜びを取り戻したTRD-1さんの物語は、同じように苦しむ世界中の人々に「脳の仕組みさえ解き明かせば、いつか必ず良くなれる」という勇気と期待を与えてくれます。

今後の研究の進展次第では、より精密に個人の脳に合わせた刺激法が確立され、難治性うつ病がこれまでよりずっと治療しやすくなる時代が訪れるかもしれません。

科学の力で心の病に光を当てるこの挑戦に、今後も大きな注目が集まるでしょう。

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元論文

Personalized Adaptive Cortical Electro-stimulation (PACE) in Treatment-Resistant Depression
https://osf.io/preprints/psyarxiv/5c3ba_v1

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

ナゾロジー 編集部

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