量子力学には、壁のような障壁を粒子がすり抜ける「トンネル効果」と呼ばれる不思議な現象があります。
電子などの粒子が、本来なら超えることのできないエネルギーの壁をまるで瞬間移動でもするかのように通り抜けてしまう現象です。
これは半導体(スマートフォンやコンピュータの要となる部品)や太陽の核融合反応でも重要な役割を果たす現象ですが、その「トンネルの中」で何が起きているのかは長らく謎のままでした。
科学者たちは粒子がトンネルに入る直前と抜け出た直後の状況はつかめていたものの、その間の挙動は直接見ることができず、まさにブラックボックスだったのです。
量子力学の誕生以来、およそ100年もの間この疑問は解き明かされていませんでした。
しかし2025年、国際研究チームがついに電子がトンネル内部で何をしているのかを観測することに成功しました。
その結果、電子は単純に直線的にトンネルを抜けるのではなく、トンネル障壁の内部で一度壁面に反射(Uターン)し、その際にエネルギーを得てから最終的に外側へ放出されるという意外な動きをしていることが判明しました。
トンネルは実は「瞬間移動」のようなシンプルなプロセスではなく、内部に複雑で豊かな物理現象を秘めていることが明らかになったのです。
では一体なぜ、そしてどのように電子はトンネル内部でこのような予想外の動きをしているのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年5月27日に『Physical Review Letters』にて発表されました。
目次
- 量子トンネル内の様子は謎に包まれていた
- 量子トンネル、実は瞬間移動じゃなかった――電子は壁の中でUターンしていた!
- 量子トンネルの中は想像以上にダイナミックだった
量子トンネル内の様子は謎に包まれていた

電子のような非常に小さな粒子の世界では、日常の感覚とは異なる不思議な現象が多く起こります。
そのひとつが「量子トンネル効果」と呼ばれるもので、粒子が本来なら超えることのできないエネルギーの壁(ポテンシャル障壁)を、あたかも壁が存在しないかのようにすり抜けてしまう現象です。
例えば、私たちがボールを壁に向かって投げつけた場合、壁がボールより高いエネルギー障壁であれば必ず跳ね返ります。
ところが、電子のような微小な粒子の世界では、壁の向こう側へ突然現れるように通り抜けることがあるのです。
これはあまりにも直感に反するため、まるで幽霊が壁をすり抜けるような不思議な現象とも言われています。
こうした奇妙な現象を初めて正しく説明したのが、1920年代に誕生した「量子力学」という学問分野でした。
量子力学は、ミクロな世界の粒子のふるまいを数学的に記述する理論ですが、その登場以降、科学者たちはトンネル効果を理論的にも実験的にも深く研究してきました。
今日では、量子トンネル効果は単なる理論的な興味を超えて、私たちの生活に直結する重要な役割を担っています。
たとえば、スマートフォンやパソコンなどに不可欠な半導体部品も、この量子トンネル効果を利用して電流を流しています。
半導体の中では、微細な壁(障壁)を電子がトンネルすることで初めて電気信号が伝わるのです。
また、私たちが暮らす地球に生命のエネルギーを供給している太陽内部の核融合反応も、トンネル効果が無ければ起こりません。
太陽の中心では、水素原子核同士がぶつかり合って融合しますが、そのとき粒子は障壁を通り抜けて初めて反応を進めることができます。
このように重要な量子トンネル効果ですが、その仕組みにはまだ謎が残されていました。
それは「粒子が障壁を通り抜ける途中で何をしているのか」という疑問です。
実は、トンネル効果を数学的に表現したり、粒子がトンネルに入る前後の状態を観測したりすることは、これまでの研究でもある程度可能でした。
しかし、粒子がまさに障壁の「中」を通過している間の様子を直接観測することは、非常に難しい問題だったのです。
なぜなら、粒子がトンネルを通過中に何らかの方法でそれを観測しようとすると、粒子の微妙な量子的状態が壊れてしまい、本来のトンネルの性質を捉えることができないからです。
そのため、トンネルの「内部」は完全なブラックボックスのような存在であり、粒子の動きや状態を直接知る術はこれまでありませんでした。
こうした状況の中、科学者たちはトンネルの中で粒子が特別な動きをしている可能性について理論的に検討を進めてきました。
特に近年注目されていたのは、「粒子がトンネルの中でエネルギーを蓄えたり、何らかの未知の相互作用を起こしたりしているのではないか」という仮説でした。
この仮説がもし本当であれば、私たちがトンネル現象をこれまでより深く理解できるばかりでなく、トンネルを利用する様々な先端技術を進化させることが可能になるかもしれません。
しかし、こうしたトンネル内部の仮説を実験的に検証することは極めて困難で、長年の課題として残されていました。
そこで今回の国際研究チームは、「トンネル内部で電子がどのようにふるまい、どのような状態を経由しているのかを明らかにする」ことを大きな研究目的として掲げました。
この目的を達成するために、国際的な協力のもと、実験と理論の両方を駆使してこの難問に挑戦しました。
そこで今回研究者たちは精密な実験で検証することによって、トンネル効果のブラックボックスを開ける試みに挑みました。
量子トンネル、実は瞬間移動じゃなかった――電子は壁の中でUターンしていた!

量子トンネル効果の謎を解明するために、研究チームは電子が原子の内部からどのように飛び出してくるのかを詳しく観察することにしました。
ただし、電子そのものを直接目で見ることは不可能なので、間接的にその振る舞いを調べる必要があります。
そこで使われたのが強力なレーザー光です。
レーザーというと一般的にはポインターやレーザーカッターのイメージがありますが、この実験で使われたレーザー光は非常に短時間(30フェムト秒、1フェムト秒は1000兆分の1秒)で強力な電場を生み出す特別なものです。
この極めて短く強い電場を原子に当てると、原子が持つポテンシャル障壁、つまり電子を原子内に引き留めている「壁」を一時的に低くすることができます。
この壁が低くなることで、原子の中に閉じ込められていた電子が壁を越えて外に出やすくなります。
しかし、壁が完全に消えるわけではなく、電子にとってはまだ乗り越えるのが難しい障害物として残っています。
それにもかかわらず、量子トンネル効果によって電子は時折その壁を通り抜けてしまうのです。
この通り抜けるプロセスで電子がもし何らかの特別な動きをすれば、その痕跡は外に飛び出した電子のエネルギーや動く方向(運動量)に残ります。
そこで研究チームは、レーザーの強さを徐々に変化させながら、原子から飛び出した電子の運動を詳しく測定しました。
この測定には、電子がどれほどのエネルギーを持っているか、どのような方向に飛び出しているかを精密に観察できる「速度マップイメージング(VMI)」という先端の実験手法が使われています。
得られたデータを丁寧に解析すると、驚くべきことが分かりました。
飛び出した電子のエネルギースペクトルを調べてみると、通常の理論では決して現れないはずの強いピーク(エネルギーが突出して高い部分)が複数見つかったのです。
これらのピークは特に高いエネルギーの領域で顕著で、しかもレーザーの強さを変えてもほとんど変化しませんでした。
もし単純に壁を通り抜けただけであれば、こうしたピークは現れないはずです。
研究チームは、この不思議な現象の理由を理論的に詳しく調べました。
その結果、電子が壁の内部を通過する際、壁の内側にぶつかって跳ね返される「反射」(再衝突)という過程が起きていることが分かりました。
さらに電子は単に跳ね返されるだけではなく、壁の内部でエネルギーを得て、原子内に存在する特定の高エネルギー状態(リュードベリ準位と呼ばれる励起状態)に一時的に移行することが確認されたのです。
電子はこの励起状態を中継点のように経由して、最終的に障壁の外へと放出されていたのです。
従来の常識と新たな発見を比較すると以下のようになります
従来の常識
電子が親原子に束縛されている → トンネル脱出 (加速課程は省略)
新しい発見
電子が親原子に束縛されている → トンネル内部を進行 → 障壁の奥でUターンして親原子の核に再衝突 → トンネル脱出 → 出口で観測される
研究チームはこのような新しいメカニズムを「バリア内部での再衝突」(Under-the-Barrier Recollision, UBR)と名付けました。
UBRメカニズムがあることで、従来の理論では説明できなかった「フリーマン共鳴」(Freeman resonance)という現象がはっきりと理解できるようになりました。
フリーマン共鳴は、1980年代に初めて観測された特殊な量子現象で、ある特定の条件で原子から放出される電子が非常に強いピークを形成する現象のことです。
今回の実験により、このフリーマン共鳴のピークがUBR過程によって引き起こされることが証明されました。
特にUBR経路によるピークの強さは、従来の理論予測を大きく超え、非常に強力で安定したものだったのです。
この実験結果が意味するのは、電子がトンネルを通過する際に単に壁をすり抜けるだけではなく、内部で壁と複雑な相互作用をしていることを示しています。
具体的には電子は壁の中で一旦戻るような反射を経験し、高エネルギーの状態へと昇ってから外へと出ていることが初めて明らかになりました。
この新しい発見は、量子トンネルの理論的理解を大きく変えるだけでなく、電子の挙動を精密に制御する未来の技術開発にも大きな可能性を開くものです。
量子トンネルの中は想像以上にダイナミックだった

本研究によって、長らくブラックボックスとされてきた量子トンネル内部での電子ダイナミクスが明らかになりました。
電子がトンネル内部で何もせず「瞬間移動」しているのではなく、実際には内部で障壁の壁との相互作用を起こし、エネルギーを獲得していたという事実は、量子世界が私たちの想像以上に豊かな物理現象で満ちていることを示しています。
この発見は基礎科学として興味深いだけでなく、応用面でも大きなインパクトを持ちます。
電子トンネルの過程を詳細に理解できたことで、今後は電子の動きをより精密に制御できる可能性が開けました。
例えば半導体や量子コンピュータ、超高速レーザーなど、トンネル効果に頼る先端技術の効率や性能を一段と高めるための新しい指針となるかもしれません。
実際、研究チームは、この研究成果は電子が原子内の障壁を通過する際の挙動を理解する重要な手がかりになると評価しており、今後のさらなる制御技術の発展に期待を寄せています。
最後に、今回の成果が教えてくれるのは、「トンネルの中」は決して空っぽの空間ではないということです。
従来ブラックボックスと考えられていたトンネル内部は、実際には電子が行き来してエネルギーを蓄えるという豊かな現象が繰り広げられていました。
ミクロの世界は「何もない空洞」どころか、私たちの想像以上に活発でダイナミックな舞台だったのです。
元論文
Unveiling Under-the-Barrier Electron Dynamics in Strong Field Tunneling
https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.134.213201
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部