ADHD治療薬として使われる精神刺激薬を長期間使用している成人は、脳表面の構造がより複雑になることが、アメリカのメイヨー・クリニック(Mayo Clinic)を中心とする国際研究チームによる最新の研究で明らかになりました。
研究では精神刺激薬治療を受けてきた成人ADHD患者の脳画像を解析されており、脳表面のシワ(脳回)の複雑性を示す指数や脳の溝の深さ、さらに表面の複雑さを示す「フラクタル次元」などが有意に増加していることを発見しました。
しかし、興味深いことに、この脳の構造的な変化はADHD症状の改善とは直接結びついていませんでした。
つまり、脳が複雑化すること自体は、患者が感じる症状の重さに直接的な影響を与えていない可能性があります。
では、薬が脳に刻むこの「複雑さ」の痕跡には、いったいどのような意味があるのでしょうか?
研究内容の詳細は『Psychiatry Research: Neuroimaging』にて発表されました。
目次
- ADHDの治療薬を飲み続けた成人の脳を分析
- ADHD治療薬が「脳のシワ」を増やす――ただし症状とは相関せず
- ADHD治療薬がもたらす「脳の変化」の真の意味は?
ADHDの治療薬を飲み続けた成人の脳を分析

仕事や家事をしているとき、集中しようと思ってもどうしても気が散ってしまうことはありませんか?
やるべきことがあるのに、つい別のことに手を出してしまう、そんな経験は多くの人がしているはずです。
ADHD(注意欠如・多動症)の人たちは、そのような問題を日常的に抱えています。
ADHDは子ども時代に診断されることが多い神経発達症の一つですが、実は約半数以上が大人になっても症状が続いてしまうことが知られています。
集中力が続かず仕事や人間関係に支障をきたしたり、思いつきで衝動的な行動をとってしまったりするため、成人になっても適切な対処が必要なのです。
そんなADHD治療の主役となっているのが、メチルフェニデート(商品名リタリン、コンサータなど)やアンフェタミン系の薬(アデラルなど)に代表される「精神刺激薬」です。
これらは脳の中で注意や集中力に関わる神経伝達物質の働きを高める薬で、日本でも一部が広く使われています。
服薬した人の多くは実際に症状の改善を感じる一方で、「薬をずっと飲み続けて本当に大丈夫なのか?」と不安を感じる方も少なくありません。
なぜなら、薬を長期間服用すると、次第に効き目が弱まるのではないか(耐性がつくのではないか)という懸念や、脳に悪い影響があるのではないかという不安があるからです。
特に、大人になってから長期に渡って薬を飲んでいる人たちにとって、こうした疑問は切実な問題となります。
実際のところ、精神刺激薬を長期間使用すると脳にどんな変化が起きるのか、またそれがADHDの症状にどう影響するのかについては、はっきりとした答えが出ていませんでした。
脳の構造や機能の変化をMRI画像で確認する研究は子どもを対象としたものが多く、大人のADHD患者に関するデータは非常に限られていたのです。
そこでイギリスのブラッドフォード大学のSherief Ghozy博士らの研究チームは、「大人のADHD患者が精神刺激薬を長期間服用すると脳に何か変化が起こるのだろうか?」という疑問を検証するために新しい研究を行いました。
この研究で特に興味深いのは、「ADHD患者と健康な人を比べる」のではなく、「同じADHD患者でも、薬を飲んできた人と飲んでいない人では脳に違いがあるのか?」という点を調べているところです。
もし違いが見つかれば、それは薬の長期服用による影響を示しているかもしれません。
つまり、「薬がADHD患者の脳をどのように変えるのか?」ということを具体的に確かめることが、この研究の大きな狙いでした。
さらに研究チームは、ADHDの特徴の一つである「衝動性」にも注目しました。
衝動性といってもさまざまなタイプがありますが、その中でも特に面白いのが「冒険的衝動性(venturesomeness)」です。
これは単に衝動的に動くというよりも、「リスクは理解しているけど、それでもあえて面白そうだから挑戦してしまう」という性格を指します。
みなさんの中にも、危険だけど楽しそうなことについつい飛び込んでしまう方がいるかもしれませんが、こうした性格が薬を飲んでいるかどうかで違ってくるのかも、今回の研究の注目ポイントでした。
研究チームは、「薬を飲んでいる人」と「薬を飲んでいない人」のそれぞれの脳を詳しくMRIで調べ、ADHDの症状や衝動性との関連を探りました。
果たして、長期間の薬物治療は成人ADHD患者の脳にどのような影響を与え、またその脳の変化は症状や行動特性にどう影響するのでしょうか?
ADHD治療薬が「脳のシワ」を増やす――ただし症状とは相関せず

長期間の薬物治療は脳にどのような影響を与えるのか?
その謎を解明するために研究者たちはまず、長期間にわたって薬物治療を受けているADHDの成人13人と、薬物治療をまったく受けたことのないADHDの成人13人を集めました。
この26人のADHD患者たちは、年齢が23歳から40歳までで、ほかに脳の病気や精神疾患を持っていない人たちです。
彼らにMRI検査を受けてもらい、脳の構造にどのような違いがあるかを詳しく分析しました。
また、同時にそれぞれの人にADHD症状の重症度を測定するテストや、衝動性を調べるための質問票にも答えてもらいました。
MRI画像の解析では、研究者たちは特に脳の次のような特徴に注目しました。
まずは脳の神経細胞が密集する灰白質の体積、そして脳表面の「シワ」(脳回)の複雑さを表す回旋指数(gyrification index)、脳表面の「谷」(脳溝)の深さ(sulcal depth)、皮質表面の複雑さを数学的に測定するフラクタル次元、さらに大脳皮質の厚み(cortical thickness)です。
これらの指標を比較すると、薬物治療を長期間受けてきた人の脳には、明らかな違いが見つかりました。
具体的には、薬物治療を受けたグループの患者では、脳表面のシワや谷が特定の領域で複雑化していたのです。
例えば、運動や動作の調整に関わる「左補足運動野」や、言語理解を助ける「左上側頭回」、運動感覚に関わる「右Rolandic operculum(ローランド蓋部)」、顔や物体認識に重要な「右紡錘状回」、視覚情報処理に関わる「左楔前部」などで、脳の折りたたみ構造がより複雑化していました。
また感情や意思決定に関わる前頭部の「眼窩前頭皮質」の一部では、脳の谷(溝)が深くなっていることも確認されました。
加えて、「左眼窩前頭皮質」の表面は数学的にもより複雑な構造になっていました。
これらは薬物治療が脳の表面構造を明らかに変化させていることを示しています。
ところが意外なことに、灰白質の全体的な体積には薬を飲んだ患者と飲まなかった患者の間で差がありませんでした。
また、ADHD症状の重さについても、薬物治療を受けているか否かで明確な違いは見られなかったのです。
つまり、脳表面に明らかな変化があったにもかかわらず、それがADHDの症状改善に直接つながっているわけではないという結果になりました。
さらに、研究者たちは「脳構造の複雑化」とは別にADHD患者が持つ衝動性という性格的な特性にも注目しました。
衝動性にも色々な種類がありますが、ここで特に研究者たちの関心を惹いたのが「冒険的衝動性(venturesomeness)」という性格傾向です。
これは単なる衝動的な行動とは少し違い、「リスクを理解しつつ、それでも面白そうなことに積極的に挑戦する」というタイプの性格を指します。
今回の調査では、薬を飲んだことがないADHD患者の方が、この「冒険的衝動性」のスコアが高く、リスクのある行動に積極的にチャレンジする傾向があることがわかりました。
さらに興味深いことに、薬物治療を受けている患者グループ内で、「冒険的衝動性」と脳構造との間に明確な関連が見つかりました。
具体的には、冒険的衝動性のスコアが高い患者ほど、「右中帯状回」(感情や意思決定に関わる領域)の灰白質体積が大きくなる一方、「右後頭葉上回」(視覚情報の処理に重要な領域)の灰白質体積は小さくなるという相反する関係があったのです。
これは、「冒険好きでリスクを取るタイプ」のADHD患者が特定の脳構造を持っている可能性を示しています。
この発見は、薬物治療によって複雑化していた脳表面構造の話とはまったく別のもので、ADHD患者の行動特性が脳内のどの部位と関係しているかを探る手がかりになるかもしれません。
こうして整理すると、今回の研究では、薬物治療によって脳表面構造が明らかに複雑化する一方で、灰白質の体積や症状そのものはあまり変化しないこと、そして「冒険的衝動性」という行動特性が脳の別の部位と関係している可能性を示すという、ふたつの興味深い発見が得られたことがわかります。
では、これらの意外で複雑な研究結果を踏まえて、私たちは今後、ADHDの治療やサポートについてどのように考えていくべきなのでしょうか?
ADHD治療薬がもたらす「脳の変化」の真の意味は?

今回の研究によって、大人のADHD患者が精神刺激薬を長期間服用すると、脳表面のシワや谷が複雑になるという興味深い変化が示されました。
研究者たちは、ADHDの治療に使われる精神刺激薬によって脳の表面が複雑になる現象について、その変化が脳の発達や成熟を促している可能性を考えています。
脳の表面のシワが増えたり、谷が深くなったりすることは、一般的に脳が成熟していることや認知機能が向上していることを示していると考えられているからです。
特に眼窩前頭皮質と呼ばれる脳の部位は、感情をコントロールしたり、何かを決定するときの判断力や報酬を感じる仕組みに重要な役割を持っています。したがって、この部分の複雑さが増すことで、感情の調整や意思決定の力が向上する可能性があると推測されています。
また、「右ローランド蓋部」や「左補足運動野」などの領域が複雑になることも、物事を計画的に進めたり、注意を維持したりするなどの実行機能が改善する兆しになるかもしれません。
ただし実際の研究では、これらの脳領域が複雑になったからといってADHDの症状そのものが明らかに改善したわけではありませんでした。
そのため、研究者たちは「脳表面の複雑化が確かにポジティブな影響をもたらしている可能性はあるけれど、ADHDの症状が実際に良くなるかどうかは、まだはっきりとは言えない」と慎重に考えているのです。
つまり脳の構造変化と症状の変化は、それぞれ異なるメカニズムで生じている可能性があるということです。
加えてこの研究が示したのはもうひとつ興味深いことがあります。
それは、ADHD患者の中でも特にリスクを冒しやすいタイプの性格「冒険的衝動性」が、脳内の特定の領域、特に右中帯状回と右後頭葉上回という部位の灰白質体積と関係している可能性です。
脳の中帯状回は、感情や認知的な意思決定に関わる場所とされています。
一方、後頭葉上回は視覚情報を処理する領域です。
このふたつの部位の灰白質の体積が、「冒険的衝動性」という特性と相反する関係を持つことは、ADHDの人たちがリスクに対してどのように反応し、なぜ特定の行動パターンを示すのかという謎を解く鍵となるかもしれません。
もちろん、この研究にはいくつかの限界があります。
ひとつは対象者が26名と少数だったことで、より大規模な研究を行えば異なる結果が得られる可能性があります。
また、この研究は薬物治療によって脳が変化したことを明確に示しているわけではなく、最初から脳にこうした構造的特徴があった人々が薬物治療を選択したという逆の可能性も否定できません。
加えて、薬を服用していないグループには「不注意優勢型」のADHD患者が多かったということも結果に影響しているかもしれません。
つまり、ADHDのタイプによっても脳の構造や行動特性に違いがある可能性があるのです。
それでも、この研究が私たちに教えてくれたことは非常に重要です。
今回の結果は、「薬を飲めばADHDの症状が簡単に治る」というシンプルな期待に対して明確に疑問を投げかけています。
むしろ、「薬物治療はADHDの症状そのものではなく、脳の別の側面に影響を与えている可能性がある」という新しい視点を提供しているのです。
私たちの脳は非常に複雑で、ある部分の構造が変化してもそれがすぐに行動や症状に現れるとは限りません。
しかし、その複雑さの背後には、まだ解明されていない多くのメカニズムが潜んでいる可能性があります。
今回の研究結果を踏まえると、ADHDの治療法やサポート方法を考える際には、「脳の構造的変化」と「症状改善」を切り離して、それぞれを詳しく調べていく必要があるでしょう。
元論文
How psychostimulant treatment changes the brain morphometry in adults with ADHD: sMRI Comparison study to medication-naïve adults with ADHD
https://doi.org/10.1016/j.pscychresns.2025.111992
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部