無人島に漂流する物語は『ロビンソン・クルーソー』をはじめ、多くのフィクション作品で描かれます。
しかし過去の歴史には、そのどれをも凌ぐ史上最も残酷かつ悲惨な漂流実話があるのです。
そこでは絶海の小さな砂の孤島に60人もの黒人奴隷が15年間にわたって置き去りにされました。
果たして、彼らの運命はどんな結末を迎えたのでしょうか?
これからする話は、どんなに絶望的な状況に陥っても、最後まで生きることを諦めなかった勇気ある人々の物語です。
目次
- 1761年、砂の孤島への漂流はなぜ起きたのか?
- 60人の黒人奴隷が15年間にわたって置き去りに
- 15年間をどうやって生き延びたのか?
1761年、砂の孤島への漂流はなぜ起きたのか?
この漂流物語は今から250年以上前、1761年まで遡ります。
場所はアフリカ南東のマダガスカル島から東に約450キロの場所にある砂の島「トロムラン島」です。
トロムラン島は全長1700メートル、幅700メートル、総面積にして1平方キロ足らずの小さな小さな孤島。
島全体が平べったく、一番高い場所でも標高7〜8メートルしかなく、小さな灌木や背の低い草木がまばらに生えているだけの場所です。
こんな所に60人も置き去りにされるなんて、一体何があったのでしょうか?
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事の発端はフランス人の船長だったジャン・ド・ラファルグにあります。
ラファルグは自身の金儲けのため、マダガスカル島へ船で立ち寄った際に黒人奴隷160人(男性の他に女性や子供もいた)を安く購入。
彼らをマダガスカル島からずっと東にあるモーリシャス島まで運んで、高値で売り渡す悪しき計画を立てたのです。
そしてラファルグは貨物船リュティール号(L’Utile)に黒人奴隷160人とフランス人船員141人を乗せて航海に出ました。
マダガスカル島から目的地までは直線航路にして約1000キロほどでしたが、当時この海域では奴隷貿易が禁止されていたため、見つかれば逮捕されてしまいます。
そこでラファルグは北に大きく迂回する山なりのルートを通って、監視網をかい潜ろうとしました。
しかしこれに異を唱えたのが船員たちです。
船員たちは山なりに迂回するルートが暴風の頻発する危険な海域であることを知っていました。
彼らはこの海域を通るのはやめるよう進言したのですが、金に目が眩んでいるラファルグはこれを頑として拒否。
操舵手は「航路を変えないと我々は眠れない」と訴えましたが、ラファルグは「それはお前らが無知なだけだ」と罵り、計画通りに航海を続行するよう命じたと、当時の船員の航海日誌に記されています。
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そして1761年7月31日午後10時30分、船員たちの恐れていた事態が起きます。
暴風と荒波に呑み込まれたリュティール号は完全にコントロールを失い、暗礁に乗り上げて難破。
リュティール号の船体は真っ二つに割れ、船員たちは海に投げ出されたり、命からがら船にしがみつくなりしました。
そのとき、波間の向こうに陸地が現れます。
それが物語の舞台である「トロムラン島」だったのです。(当時の名称は「セーブル島」でしたが、今回のある出来事をきっかけに改名されます。その話はまた後で)
結局、フランス人船員のうち18人は溺死し、ラファルグを含む123人がトロムラン島に辿り着きました。
しかしもっと悲惨だったのは黒人奴隷たちの方です。
黒人奴隷たちは積み荷として船底の貨物室に閉じ込められていたため、難破によって海水が入り込み、ほぼ半数の72人が死亡してしまったのです。
トロムラン島に漂着した黒人奴隷は88人となっていました。
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船員たちはラファルグに指揮を仰ごうとしましたが、当の本人は難破によって精神が崩壊したのか、魂が抜けて一言も口がきけない状態に陥っていたといいます。
そこでリュティール号の副司令官だったバルテルミー・カステランが全面的に指揮をとることになりました。
カステランはまず、船員の一部に島の掘削をさせて、水を掘り当て、そこに飲み水用の井戸を作ります。
他の船員にはリュティール号の残骸をできる限り集めさせて、仮住居としてのベースキャンプを設けました。
そして最大限の労力を注いだのが脱出用の船の建造です。
カステランはリュティール号の木材を再利用して、”神のご加護”を意味する脱出船「プロビデンス号」を作りました。
この作業には生き残った黒人奴隷も協力させられています。またその過酷な作業の過程で、黒人奴隷のうち28人が亡くなり、残りは60人となっていました。
2カ月に及ぶ作業の末、ついに脱出の日がやってきたのですが…
60人の黒人奴隷が15年間にわたって置き去りに
プロビデンス号の大きさは元のリュティール号よりも遥かに小さく、長さ10.5メートル、幅3.9メートルしかありませんでした。
そこに生き残ったフランス人船員と黒人奴隷を全員のせることは物理的に不可能です。
ご想像の通り、カステランはフランス人船員123人を先に乗せ、「後から必ず戻ってくるから」とだけ言い残し、黒人奴隷を絶海の砂の孤島に置き去りにしました。
そうして船員たちは無事に自国へと帰還することができたのですが、カステランはあくまでも責任感の強い男だったのか、黒人奴隷を置き去りにしたことに良心の呵責を感じます。
そこで彼はフランス政府に「我々の脱出を助けてくれた黒人奴隷たちをなんとしても救出しなければならない」と嘆願します。
しかし当時のフランス政府は1756年から始まったイギリスとの七年戦争(1763年まで続く)を理由に「資金もないし、そんな暇はない」とこれを断りました。
それでもカステランは何度も政府に救出用の船を出すよう懇願を続けます。
この問答の繰り返しが延々と続く中で、時間だけがいたずらに過ぎていき、トロムラン島の難破からすでに8年が経っていました。
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難破事故も忘れ去られようとしていた1773年、フランス海軍はようやくカステランの要請を聞き入れて、トロムラン島に救助船を派遣します。
ところがこの時の救助作業は島周辺の激しい荒波のせいで失敗。翌1774年にもう一度試みたものの、これも失敗。
トロムラン島はそれだけ自力で行くことが難しい海域にあったのです。
しかし1776年11月29日、若干25歳の若き船長ジャック=マリー・ブーダン・トロムラン(1751〜1798)の率いる船がついに島への上陸に成功します。
この時点でリュティール号の難破事故から実に15年が過ぎていました。
果たして生存者はいたのか?
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いました!
人数は随分と減っていたものの、島には7人の女性と生後8カ月の赤ん坊が生き残っていたのです。
救助に向かった船員たちは「船で島に送ろう」と話しかけると、女性たちは特に表情を変えることなく、無言のままボートに乗り込んだと伝えられています。
その際、島を振り返ることもありませんでした。
女性たちの話によれば、島に取り残された最初の数カ月間で、過酷な環境と見捨てられたことへの絶望から多くの人が亡くなったという。
中には残っていた木材で小さな筏を作り、18人が島を脱出したといいますが、彼らの生死は不明です。
ただ島の周囲の荒波を筏で渡り切ることは難しいため、波に飲まれて命を落とした可能性が高いと見られます。
さらに島に残った40人ほどもその後の10年間で約半数にまで減ってしまいました。
そうしてトロムラン船長の救助隊が着く頃には、生存者が彼女たちだけになっていたのです。
この事件が当時のフランスで話題となり、セーブル島は救助に成功したトロムラン船長にちなんで「トロムラン島」へと改名されました。
ちなみに生還した女性たちがその後どうなったかというと。
フランス政府は彼女たちを自由人として宣言し、故郷のマダガスカル島に帰すことを提案しましたが、彼女たちはこれを拒みます。
マダガスカル島に戻れば、再び奴隷にされると考えたからです。そのため、彼女たちはフランス領内の島に残り、生涯を過ごしました。
これで事件自体は終幕を迎えますが、2006年になってパリ第4大学の考古学者マックス・ゲルー氏がトロムラン島に出向き、調査を行います。
それは「小さな砂の孤島で一体どうやって15年間も生き延びることができたのか」気になったからです。
そして調査の結果、置き去りにされた人々の真に勇敢な物語が200年以上を時を経て、浮かび上がってきたのです。
15年間をどうやって生き延びたのか?
先に述べたように、トロムラン島は「砂の平地」と呼ぶにふさわしい過酷な場所です。
背の低い草木がまばらに生えているだけで、高い樹木がなく、家を作ったり、焚き火をするための木材もありません。
さらにこの海域は毎年10月から翌5月まで強力なサイクロンが断続的に発生する危険な領域です。
実際、1986年には時速280キロ(!)という突風が記録され、島に生息していたネズミが壊滅する事態が起きています。
食糧もない、家を作る材料もない、突風から隠れる場所もない…
こんな状況下で、どうやって15年間も生き延びることができたのでしょうか?
ゲルー氏らのチームは2006年から計4度にわたる発掘調査を行い、その驚くべき秘密を明らかにしました。
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まず彼らが見つけたのは石を材料にして作られた居住施設でした。
トロムラン島には木材がないものの、海岸沿いには石が大量にあったため、生存者たちは砂を掘って壁に石を積み重ねて、居住スペースを作り出していたのです。
また天井にはリュティール号が残した木材を張ることで屋根とし、雨風を凌いでいたと見られます。
それからリュティール号の帆は人々の衣服に仕立て上げられていました。
それでも暴風の魔の手から完全に守られることは困難だったらしく、住居が何度も壊されては建て直された痕跡が見つかっています。
彼らは最終的に10棟ほどの住居をより集めるように密集させて小さな集落を形成していました。
リュティール号の木材は他に、火を焚くために慎重に利用されたこともわかっています。
また飲み水用に雨を受けるための器も見つかりました。
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食糧については周りが海なので「魚が主軸だろう」と思われましたが、意外にも遺跡から出土した動物の骨のうち、魚の骨はわずか3%に過ぎませんでした。
おそらく、釣り用の船がなかったせいで海に出ることが難しかったか、生存者の多くがマダガスカルの内陸部出身だったため、釣りの心得がなかったことが関係していると指摘されています。
一方で、出土した骨の90%以上を占めていたのは「セグロアジサシ」という鳥のものでした。
セグロアジサシは毎年7月から翌1月までトロムラン島に棲みつくので、その間の主食にしていたと見られます。
加えてゲルー氏らは「生存者たちは鳥や魚の他にウミガメを主食にしていた可能性が高い」と話します。
トロムラン島はウミガメの産卵地として知られており、警戒心が強く動きも俊敏な鳥よりも狩るのが圧倒的に簡単です。
また卵も貴重な栄養源として利用できます。
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ゲルー氏らの試算によると、生存者たちは15年の間に鳥を約9万羽、魚を約2500匹、ウミガメを約400匹食べたと見積もられています。
しかしこれらとは別に、もう一つ注目すべきものが見つかりました。
遺跡から2体の人の遺骨が発見されたのですが、どこを調べても暴力や食人行為の痕跡は一切見つからなかったのです。
その他の数十名の遺骨は見つかっておらず、彼らがどのように仲間を弔ったのかはわかりません。
埋葬ではなく、水葬に伏した可能性もあります。
ただここから推察されることは、生存者たちはどんなに極限の状況でも互いに傷つけ合うことなく、仲間と助け合い、尊重し合って15年間を生き延びたことです。
それでもあまりの過酷さに次々と命が失われていきましたが、彼らが命をつなぐことを諦めなかった結果、7人の女性と1人の赤ん坊を生きて帰すことができたのでしょう。
参考文献
The Slaves of Tromelin Island
https://www.amusingplanet.com/2022/09/the-slaves-of-tromelin-island.html
How an 18th-Century Shipwreck Changed France’s Conversation About Race
https://newlinesmag.com/essays/how-an-18th-century-shipwreck-changed-frances-conversation-about-race/
元論文
La culture matérielle comme support de la mémoire historique : l’exemple des naufragés de Tromelin
https://doi.org/10.4000/insitu.10182
ライター
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。
編集者
ナゾロジー 編集部