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南蛮貿易の負の歴史!ポルトガル商人による日本人奴隷の輸出について


大航海時代には安価な労働力として、アフリカから大量の奴隷がアメリカに輸出されました。

しかしこれらとほぼ同時期に、日本からも奴隷が輸出されていたことはあまり知られていません。

果たしてどのような経緯で日本人奴隷の輸出が行われるようになったのでしょうか?

また日本人奴隷はどのような生活をしていたのでしょうか?

本記事では日本人奴隷の経緯と生活について取り上げつつ、その顛末について紹介していきます。

なおこの研究は、東アジア文化交渉研究6巻p. 493-504に詳細が書かれています。

目次

  • 九州で奴隷を集めていたポルトガル商人
  • 女は妾、男はボディーガード
  • 秀吉は激怒、伴天連追放令の遠因に

九州で奴隷を集めていたポルトガル商人

狩野内膳作『南蛮人渡来図』、ポルトガル人は鉄砲を日本に輸出し日本から奴隷を輸入した
狩野内膳作『南蛮人渡来図』、ポルトガル人は鉄砲を日本に輸出し日本から奴隷を輸入した / credit:wikipedia

戦国時代の日本では、人身売買が盛んにおこなわれていました。

当時の日本は戦乱の時代ということもあって荒れに荒れており、親が子どもを売って資金調達と口減らしを同時に達成するということも多くあったのです

また城が攻め落とされた後、その城にいた女性や子どもを戦利品として手に入れるということも多々ありました

さらにポルトガル商人宣教師の報告にも「島津家の軍勢が1586年に豊後(現在の大分県)に攻めてきて、女性や子どもを中心に多くの人を拉致し、その多くが九州各地に売られた」とあります。

こうした事実に対して心を痛めた人も少なくなく、イエズス会の日本教団の巡閲使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは「お金のために人を牛馬のように売買する日本人の行為に怒りを覚えた」とさえ言っています。

ただ当時奴隷売買を行っていたのは日本だけの話ではなく、欧米でも奴隷売買は行われており、ポルトガル商人などは日本の身売りされた子供や拉致された女性などを安価で購入し輸出していました。

こうしたポルトガル商人によって輸出された日本人奴隷は5万人とも言われており、いかに多く売られていたかが窺えます。

また先述したヴァリニャーノも「日本人奴隷にとって、ポルトガル人に売られるほうが優しく扱われる上、キリスト教の教義を授けてもらえる分まだマシだ」と語っており、日本人同士の奴隷売買は否定しておきながらポルトガル人による日本人奴隷の売買は肯定的に評価していたのです。

さらにキリシタン大名として知られる大村純忠に至ってはキリスト教への改宗を拒否した領民たちを奴隷としてポルトガル商人に売り渡しましたが、そのことについてポルトガル宣教師から咎められることはなかったのです。

大村純忠、日本初のキリシタン大名として知られている
大村純忠、日本初のキリシタン大名として知られている / credit:wikipedia

こういった状況に対してイエズス会は「キリスト教の布教の妨げになる」という理由でポルトガル商人による奴隷売買をやめさせようとしていており、ポルトガル本国に働きかけていました。

その甲斐あって、1571年にポルトガル国王は日本人奴隷の取引の禁止をする命令を出したのです。しかし日本とポルトガルはかなりの距離があったこともあってこの命令の効果はあまりなく、引き続きポルトガル商人による奴隷売買は行われました

また当時の日本人の奴隷売買熱は強く、ポルトガル商人からして「日本人の奴隷売買の熱情にこたえて取引に応じざるを得ない」と言われるほどであり、日本人も積極的に奴隷を売っていました。

女は妾、男はボディーガード

1639年のマカオの地図、ここに多くに日本人奴隷が送られてきた
1639年のマカオの地図、ここに多くに日本人奴隷が送られてきた / credit:wikipedia

それでは日本から輸出された奴隷は、どこに行ったのでしょうか。

当時の航海技術では長距離の航海は難しかったこともあり、日本から輸出された奴隷は当時ポルトガル人の居留地があったマカオ(現在の中華人民共和国マカオ特別行政区)に送られました。

奴隷として売られた女性の多くは、マカオにて妾として生活していたのです。

その中にはマカオのポルトガル人と結婚するものもおり、ポルトガル人との間に子をなすこともよく見られました。

中にはポルトガル人が所有している黒人奴隷やマレー人奴隷に妾として売られる日本人女性もおり、奴隷の奴隷となっているものもいたのです。

一方男性奴隷はポルトガルの植民地にて、ボディーガードや兵士として生活していました。

ゴア(現在のインド)議事会がポルトガル国王にあてた手紙には、「ポルトガル人の人手が足りないので、日本人奴隷に主人を守るように努めさせている。戦の時、一人のポルトガル人が5~6人のマスケット銃を持つ若い日本人奴隷を率いたとしても、彼らは勇ましいので善戦できる」と書かれており、その能力の高さが買われていたことが窺えます。

またマラッカ(現在のマレーシア)には日本人奴隷にて構成された総督を守るための警備部隊があり、その中にはポルトガル人に従って東南アジアを転戦する日本人奴隷も数多くいました

さらにマカオにも同様の立場の男性奴隷はおり、彼らは当時ポルトガルを脅かしていたオランダ人からマカオを守るために重宝されていたのです。

しかしそういった日本人男性奴隷は、夜になるとしばしば通行人を襲撃し略奪したり、はたまた奴隷同士で格闘しあったりするなどしていました。

それによりマカオの治安は悪化し、日本人奴隷に対する批判が相次いだのです。

そのため1586年、「奴隷は主人に同行する場合を除いて武器を持ってはいけない」という法律が発令されました。

また「奴隷がポルトガル人を殺したら、右腕を切断して10年間軍艦の中で強制労働させる」という法律も発令されました。

しかし効果はあまりなく、マカオの治安が回復することはなかったようです。

秀吉は激怒、伴天連追放令の遠因に

ヴァリニャーノ、日本におけるキリスト教の布教にて大きな役割を果たした
ヴァリニャーノ、日本におけるキリスト教の布教にて大きな役割を果たした / credit:wikipedia

しかしこういった奴隷売買は戦乱期だから許されていたという面もあり、豊臣秀吉が天下統一に向けて本格的に動き出すと、ポルガル人の奴隷輸出にも厳しい視線が向けられるようになります。

1587年、秀吉はイエズス会に「何故にポルトガル人は、日本人を買って奴隷として船で連れ行くのだ」と詰問状を送りました。

また同年に秀吉は奴隷売買を禁止する法律を出し、ポルトガル人の奴隷売買をやめさせようとしたのです。

こうしたこともあって、1589年、ヴァリニャーノは日本人奴隷を売買したポルトガル人を教会から破門することを決定しました。

しかしこうした動きに対してポルトガル人サイドから反発がなかったわけではありません。

例えば先述したゴアの当局は「日本人奴隷を開放すれば、敵と結託して反乱を起こすに違いない。奴隷解放の噂が入れば、すぐにでも動き出すので、我々は警戒しなければならない」と懸念を表しており、好戦的な日本人奴隷の刃が自分たちに向くことを非常に恐れていました。

江戸時代に行なわれた鎖国に対しては様々な議論がありますが、こういった話を聞くと鎖国に踏み切ったのも致し方ないのではないかとさえ感じます。

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参考文献

関西大学学術リポジトリ (nii.ac.jp)
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/12403

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。

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