象は日本でも人気のある動物であり、現在でも動物園の花形として扱われています。
そんな象ですが、何と江戸時代にも日本にやってきたことがあります。
果たしてどのような経緯で江戸時代に象が日本にやってきたのでしょうか?
また来日した象に対して、人々はどのような反応をしたのでしょうか?
本記事では江戸時代に象が日本にやってきた経緯について紹介しつつ、人々の反応について取り上げていきます。
なおこの研究は東アジア文化交渉研究7巻p.413-422に詳細が書かれています。
目次
- 象を欲しがった江戸幕府
- 象、来日
- 象を持て余した江戸幕府
象を欲しがった江戸幕府
日本国内の象に関する記録は古く、例えば、1591年には広南朝(ベトナム中部にあった王朝)から贈り物として象牙が送られたことが記されています。
この時期は豊臣秀吉が太閤となった頃で、東南アジアとも交易がありました。秀吉は当初生きたオスの象を欲しがっており、広南朝もそれに応じてオスの象を贈ろうとしていたといいます。
しかし使者の船が小さくて物理的に日本まで運ぶことができないことから、やむなく象牙を贈ったのです。
このため日本にいる人々にとって象を知る人はほとんどおらず、権力者であっても見ることは叶わない存在でした。そして江戸時代に入ると、庶民の間でもベトナムの象について関心が寄せられ、絵図などに象や象遣いの様子が描かれるようになります。
そのようなこともあって、ついに将軍の徳川吉宗は日本に象を送るように要請したのです。
当時のベトナムでは、象の貿易が活発でした。
ベトナムでは、外国人に象を売買しており、ラオスとの国境に位置する市場では象の価格が定められていたのです。
当時のベトナムでの象の価格は、日本の20両(現在の価格では大体260万円)に相当するとされています。
それだけ聞くと高いように見えますが、江戸時代の馬の価格が25両であることを考えると、そこまで象自体の価格が高いわけではありません。そのため象を購入すること自体は江戸幕府には容易だったでしょう。
しかし象をベトナムから日本に運搬するのは大変であり、それゆえ膨大な費用が必要だったのです。
また江戸幕府では、象を軍事目的に使えるかどうかを見極めるため、長期にわたり飼育する計画がありました。
それゆえ象ならば何でもいいというわけではなく、日本に送る象の条件を決めるのに長い期間がかかったのです。
最終的に渡来した象は7、8歳程度であり、訓練期間に入る適切な年齢であったのです。
象、来日
そして1728年6月、長崎に2匹のつがいの象が上陸しました。
2匹はそこで江戸へ向かうための準備が整うまで滞在する予定でしたが、気候や食事が合わないという理由でメス象が体調を崩し、わずか3か月後には命を落としました。
一方でオス象の方は体調を崩すことなく日本の気候や食事に馴染み、翌29年3月13日には長崎を出発して江戸に向かいました。
4月20日には京都へ入り、京都御所で中御門天皇と霊元上皇に謁見しました。
なおこのとき朝廷では「象といえども無位無官のものが天皇・上皇に謁見するのはいかがなものか」と問題になり、朝廷は象に従四位(江戸時代の武家の場合は老中などの重職に就任した大名や10万石以上の大名に与えられた位階)の官位を与え、象は「広南従四位白象」として天皇に謁見しました。
生まれて初めて象を見た皇族たちは象の姿に衝撃を覚え、
「時しあれは 人の国なる けたものも けふ九重に みるがうれしさ(かねてから興味のあった外国の獣をみることができて今日はすごく嬉しい)」中御門天皇
「めづらしく 都のきさの 唐やまと すぎし野山は 幾千里なる(珍しく象が都にいる。大陸から日本まで幾千里を超えてきたことだ」霊元上皇
とそれぞれ自身の感動を歌に残しています。そして象は京都を去り、5月25日には江戸に到着しました。
そして江戸城にて象は徳川吉宗と対面したのです。
なお吉宗は対面後に象にイノシシやイヌを立ち向かわせ、どちらの方が強いのかを確かめたといいます。
象を持て余した江戸幕府
吉宗は象の世話を何度かし、象使いの仕事ぶりを観察し、自ら餌を与えることさえありました。
しかし当時は吉宗直々に行っていた享保の改革の最中であり、幕政でも様々なコストカット策が練られていたのです。
象を飼育するのには食費などで多額の費用がかかるということもあり、やがて幕府は象にかかる費用に頭を悩ませるようになりました。
それでも象は13年間浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で飼育されたものの、成長に伴い費用がますます増えていったのです。
1741年4月、象は暴れて象使いを殺害し、それを受けて幕府はついに象を手放しました。
象は中野村(現在の東京都中野区)の農民に預けられ、その農民は象の見物を運営して金儲けを行いました。
象は日本において特別な注目を浴び、民衆は象を神聖な動物とみなし、象を見るだけで病気が治るとまで噂されていたのです。
しかし象に幕府で飼われているときのような満足な餌を与えることができなかったこともあって、徐々に象は弱っていき、遂に1742年12月に死亡します。
その後、皮は幕府が引き取り、頭の骨と象牙はその農民に譲渡されました。
その後も象の崇拝は続き、象の様子を描写した本や詩、象の糞を乾燥させたものを薬として販売するなど、象にまつわる物品は好評を博していました。
象が生きているうちだけではなく死んでからもそれを利用して金儲けをしているあたり、江戸時代の庶民のたくましさが窺えます。
わずか1年で日本語の指示を理解するようになった象
余談ですが、象は言語を理解できる動物と言われていることもあり、それ故調教も言葉を介して行われます。
この象はベトナムからやってきたということもあり、当初はベトナム語しか理解することができず、それゆえベトナム人が象を調教していました。
なお当時の日本人の中にベトナム語を理解できる人は皆無だったことから、当初日本人が象に何か指示を出すときは一旦中国語でベトナム人の通訳者の指示を出し、その通訳者が象を調教する人にベトナム語で指示を出してもらっていました。
しかし象は日本語への理解を深め、1年後には日本語の指示も理解できるようになったと言われています。
こういったところにも、象の知能の高さが窺えます。
参考文献
関西大学学術リポジトリ (nii.ac.jp)
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/12436
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。