先天的疾患を後天的に治療します。
米国のイーライリリー・アンド・カンパニーおよびハーバード大学(HU)、復旦大学など複数の研究機関による共同研究によって、先天的に重度の難聴を患っている子供たちに対して遺伝子治療が行われ、劇的な聴力回復を達成することに成功しました。
治療を受ける前、子供たちは重度あるいは完全な難聴でした。
しかし現在では補聴器を使うことなく父親と会話でき、車の接近を音で感じることも、鳥のさえずりを聞くこともできるようになりました。
先天的な遺伝病を後天的に治療する遺伝子治療では、いったいどんな技術が使われているのでしょうか?
今回は前半部分でこれまで紹介してきた遺伝子治療にかんする記事をまとめ、次ページ以降に研究内容を解説したいと思います。
研究内容の詳細は2024年1月24日に5大医学雑誌の1つとして知られる『THE LANCET』に掲載されました。
目次
- 後天的に遺伝子を追加する遺伝子治療の大きな成功
- うまれて初めて音を聞いた子供たち
後天的に遺伝子を追加する遺伝子治療の大きな成功
現在、世界中には15億人以上が何らかの難聴に苦しんでおり、そのうち2600万人は先天性の難聴となっています。
特に小児の難聴は遺伝的な理由が多く、60%は先天的性となっています。
アメリカに在住する11歳のアイサムさんも先天的な難聴であり、音の振動を脳に送るための信号に変換する「オトフェリン」と呼ばれる遺伝子に問題がありました。
耳と脳が正常でも、両者を繋ぐ信号がなければ、完全な難聴になってしまいます。
同様のオトフェリン遺伝子疾患は出生時から存在する難聴の1~8%(20万人ほど)を占めています。
ただ残念なことに現在、遺伝性難聴を治療するためにFDAから承認された薬は存在しません。
頭痛薬や胃腸薬とは違い、耳と脳の信号を中継してくれる薬を開発するのは極めて困難だからです。
たった1つの遺伝子のせいで、アイサムさんは音のない世界で暮らさざるを得ませんでした。
しかし遺伝子治療技術の急速な進歩により、状況は変わりました。
遺伝子治療では機能していない、あるいは欠損している遺伝子の代りとなる「正常な遺伝子を外部から細胞に供給」することで、遺伝子疾患の回復を目指します。
これまでにも次のような試みが実践されています。
①全色盲の人の色覚を回復させた事例
イスラエルのエルサレム・ヘブライ大学(HUJ)で行われた研究により、遺伝子変異によって完全に色盲だった被験者たちの網膜(錐体細胞)に遺伝子治療を行ったところ、赤色を認識できるように変化したことが示されました。
治療効果は1年後も継続していることが確認され、研究者たちは遺伝子治療による色覚獲得への第一歩が得られたと述べています。
②ドーパミンが作れず寝たきりだった小児を走り回れるほどに回復させた事例
AADC欠損症は主に幼い子供たちから発見される遺伝病であり、脳の情報伝達が阻害されるため寝たきりになり、言葉の習得すらできなくなってしまいます。
しかし臨床試験において「Upstaza」は高い効果を示し「一生寝たきり」になるはずだった子供たちの何人かを、元気に走り回れるまで回復させることに成功しました。
③不安を抑制させる遺伝子を組み込みマウスを恐れ知らずにした事例
エセクター大学はマウスの脳内で不安のブレーキを担当する遺伝子が発見され、機能を増強することで不安レベルを著しく低下させることに成功しました。
また不安を遺伝子レベルで取り除かれたマウスは、普通のマウスなら動きが委縮するような高所でも大胆に動き回るようになりました。
研究者たちは同じ不安を抑制する仕組みが人間の脳にも存在する可能性が高いと述べており、この仕組みを人工的に作動させる方法を見つけることができれば、不安障害を根本から治療できると述べています。
こちらもは遺伝子治療を目的としたものではありませんが、遺伝子治療の概念で脳から恐怖を追い出すことに成功しています。
以上のように、上手く機能しない遺伝子の代りに正常な遺伝子を細胞に届けたり、元の生命がもたない能力を遺伝子によって後天的に与えることに成功してきました。
ここで紹介したもの以外にも、後天的な遺伝子組み換え、あるいは遺伝子送達による能力変化は盛んに行われています。
そこで今回研究者たちは、問題のあるオトフェリン遺伝子を補うため、正常なオトフェリン遺伝子をアイサムさんと同じ症状を持つ6人の子供たちの耳の奥の細胞(蝸牛への小さな入り口である正円窓)に届けることにしました。
先天的な疾患を後天的に治療する遺伝子治療は、子供たちの耳にどんな効果を与えてくれたのでしょうか?
うまれて初めて音を聞いた子供たち
遺伝子を届ける配達人には、感染しても無害なウイルス(アデノ随伴ウイルス)が使われました。
このウイルスは感染すると自分の遺伝子を人間の細胞に送り込む性質があります。
研究ではこのアデノ随伴ウイルスの遺伝子を操作して、正常なオトフェリン遺伝子を組み込みました。
こうすることでウイルスが感染すれば、子供たちの耳奥の細胞に正常なオトフェリン遺伝子を配送できます。
ただオトフェノン遺伝子はかなり大きな遺伝子であったためにアデノ随伴ウイルスでは運びきれません。
そこでオトフェノン遺伝子は2分され、2種類のウイルスベクター(配送パッケージ)に組み込まれました。
ウイルスが細胞に感染すると、2種類の遺伝子が合わさって、完全なオトフェノン遺伝子として働くことが可能です。
たとえるなら「膨大な量となった高性能冷蔵庫の設計図」を運ばなければならないときに、冷蔵庫部分の設計図と冷凍庫部分の設計図を別々の配送パッケージ(ウイルスベクター)に入れて運ぶのに近いでしょう。
何気ない手法に思えますが、設計図を分けてウイルスに運ばせるという手法(デュアルウイルスベクター)は画期的な技術として高く着目されています。
そしてなにより、効果も抜群でした。
手術を受けた6人のうち5人は4~6週間後に聴力が芽生え始めます。
そして4カ月後には重度の難聴だったものが、軽度から中度の難聴にまで改善しました。
5人のうち3人は人工内耳を埋め込まれていましたが、機械のスイッチをオフにした状態でも音声を認識し、会話でコミュニケーションができるようになりました。
特に2人では音を全く知覚できない状態から、うまれて初めて音を聞くことに成功しました。
回復した子供たちはいまや、父親の声、車の音、髪をハサミで切る音さえも聞くことが可能です。
同様の治療を受けたアイサムさん(11歳)も難聴が改善し、音がない世界から音がある世界を知ることができました。
(※アイサムさんの治療は米国のフィラデルフィア小児病院:CHOPで行われました)
アイサムさんはニューヨーク・タイムス紙が行ったインタビューに対して「嫌いな音はないです」「みんないい」と感想を述べました。
現在、小児期の難聴を引き起こす150以上の遺伝子が知られています。
研究者たちは「今回の遺伝子治療はそのうちの1つを治療したに過ぎませんが、使用された技術を使えば、他の遺伝子疾患にも対処できる可能性がある」と述べています。
遺伝子疾患は目、耳、鼻、口、皮膚、神経、脳細胞、骨髄、筋肉などさまざまな組織にみられます。
もし遺伝子治療がもっと発展していけば、あらゆる先天的な疾患を治療できるようになるかもしれません。
あるいは治療とは別に、筋肉を高める遺伝子、知能を増強する遺伝子、さらには穏やかな性格にする遺伝子などを筋肉や脳細胞に取り込めるようになるかもしれません。
SF的な未来をここから想像するなら、増強したい能力別の遺伝子治療薬というものが登場するかもしれません。
ただ細胞に注入した遺伝子を選択的に取り出す方法はまだ存在しないため、こうした効果は一時的なものではなく永続する可能性があります。試しにちょっと使ってみるというにはリスクが高いかもしれません。
参考文献
Children’s Hospital of Philadelphia Performs First in U.S. Gene Therapy Procedure to Treat Genetic Hearing Loss
https://www.chop.edu/news/children-s-hospital-philadelphia-performs-first-us-gene-therapy-procedure-treat-genetic-hearing
元論文
AAV1-hOTOF gene therapy for autosomal recessive deafness 9: a single-arm trial
https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(23)02874-X/fulltext
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。