筆者が初めてFCEV(Fuel Cell Electric Vehicle=燃料電池電気自動車。トヨタは、日本国内ではFCVと表記するが、海外でのシンポジウムなどの際にはFCEVと表記している。本件ではFCEVと表記する)を目の前で見たのは1991年だった。ダイムラーベンツの試作車だった。「ワンオフの試作車は何台か持っている。これを君に譲るとなると300万ドルはもらわないとね」と言われ、ああ、単純に部品代が3億円以上なんだなと思った。
それから30年、トヨタMIRAI2代目はFCスタックをボンネット内に収め、2本の高圧水素タンクをセンタートンネルとリヤシート後方にT字型に配置し、後輪を駆動するモーターとその制御装置を後車軸まわりに搭載するというスマートなスタイルにまとめた。
筆者初めての携帯電話は、1988年に30万円の預託金を支払って毎月3万円ほどの通話料+機材レンタル料を支払った。機能は電話をかけるだけ。大きさは500ml入りPETボトル飲料2本分くらいあった。いまのスマートフォンはすでにパームトップコンピューターであり、機能のひとつが通話であるに過ぎない。半面、機能の追加で端末費用+通信回線使用料は毎月1万数千円になる。個人的には、そこにFCEVほどの進化は感じない。
田中:我われが作るFCEVはインバーター/2次電池/モーターはHEV(Hybrid Electric Vehicle=混合電動車、いわゆるハイブリッド車。トヨタは国内ではHVと表記するが、本項では世界標準であるHEVを使う)用のものを流用します。信頼性の高い量産品を使い、コストを抑えることが目的です。2代目MIRAIの開発に当たってはいろいろなレイアウトを考えました。その結果、モーターをリヤに置いてFCスタックをボンネットの下に置き、タンクをセンタートンネルとリヤシート側にT字型に積むのが一番良いのではないかという結論に達したのです。結果的に後輪駆動になりました。
牧野:T字型のタンク配置は、衝突直前速度の高い前面衝突の際に、センタートンネル内配置のタンクが後方に押されて横置き配置されたもう1本のタンクにぶつかるという懸念があります。
田中:ボンネットフード内のFCスタックもキャビン内のタンクも、あらゆる事故形態を想定しています。通常、トヨタ車が確保している法規以上の衝突速度での衝突安全性は問題なく確保できるということを確認しています。ちなみにタンクはものすごく丈夫です。最内郭は樹脂製ライナーで、ここで水素を漏らさないための気密性を確保します。その外側はCFRP(炭素繊維強化樹脂)で、圧力に対する強度を担保します。外側はGFRP(ガラス繊維強化樹脂)で覆われ、CFRP層への傷つきを防ぎます。
そして、国際基準である87.5MPaの水素充填圧に耐えるようタンクを作ってあります。定格(通常使用)は約70MPaです。物理的な特性で言えば、クルマのボディがぐしゃぐしゃになったとしてもタンクは壊れません。ガソリン/ディーゼル車には燃料漏れ、電動車には電気の高圧安全という要件があり、さらにFCの場合は水素安全という項目があります。水素が漏れないことも確認しなければならないのです。
牧野:基幹部品を、既存車種から流用したとはいえ、710万円で利益が出るとはとても思えません。原価割れしていると思います。
田中:たしかに先代もこの2代目もビジネス上はまったく成り立っていません。
牧野:FCEV乗用車の事業を黒字にするとしたら、生産台数はどれくらい必要でしょうか。初代の登録台数を調べると約6年間で1万1000台でした。
田中:何をもって黒字かという見方はなかなか難しいのですが、ビジネスベースに載せるには最低でも年間3万台は作らないとならない。現在、我われの生産能力がそのレベルです。
牧野:この2代目の仕上がりから思うことは、企業の役員車としての資質は充分に備えているということです。華美ではなく質素でもない。個人的には、このクルマが「クラウン」を名乗ってもいいと思います。
田中:2代目を発表したあと「740万円は高い」という声もいただきましたが、けして高級車を作ったわけではなく、これくらいの価格になってしまうのです。水素というだけで買っていただけるのであれば苦労はありませんが、現在は「水素」はネガティブな要素であり、けしてポジティブな要素ではないのです。
牧野:世界的に水素利用への機運が高まっています。日本では福島県に再生可能エネルギーによる水素プラントFH2Rが完成しました。同様のプロジェクトは世界中で目白押しです。私には、とても水素がネガティブだとは思えません。
田中:たしかに環境意識の高い方や、水素の可能性についてご理解いただいている方にはポジティブに受け止められますが、クルマは広く一般の方々に買ってもらわないと増えてゆきません。なので、この2代目は水素に対する社会の受容性を高めたいという思いがあります。より多くの人に乗ってもらわないと数は増えませんから。
価格的にもお買い得感を感じていただくことが重要と考えました。ですから「走り」「乗り味」にも気を遣いました。装備では、先代はカーナビゲーションが標準装備ではなかったのですが、今回は12.3インチのタッチディスプレー、ステアリングヒーター、シートヒーターなどもすべて標準です。
牧野:乗り味でいうと、よくこれだけの大径扁平タイヤでまとめたな、という印象です。同時に、満載で2トンを超える車両重量も決して運転感覚に対してはマイナス要素にはなっていません。
田中:このサイズの大径タイヤを履いた理由は航続距離の確保です。床下スペースを確保しタンク直径を大きくするための大径タイヤで、このタイヤのおかげで航続距離が伸びたという部分があります。もちろん居住性の改善とプロポーションにも役立ちました。
牧野:しかし、この種のクルマはどうしても重たくなります。2次電池満載のBEV(Battery Electric Vehicle=電池充電式電気自動車)でこれだけの航続距離を確保するとなると、さらに重たくなると思いますが、コストを押し上げる材料置換なしに、もう少し軽量化できますか?
田中:機能面の要求からタンクもタイヤも重たくなりました。若干の軽量化の余地もないことはないのですが、たとえば200〜300kg削るとしたら材料置換しか手はありません。今回は先代とアルミ使用部位も一緒です。FRプラットフォームを採用し車体も大きくなりました。しかし、車両重量は1920kgに抑えました。先代の最軽量車が1850kgですから70kg増です。
牧野:なるほど、私が感じたのは、ほどよい「蹴り感」だったのですね。じつにうまく騙されました(笑)。それと、さきほど水素というエネルギーの社会受容性を上げるということをおっしゃいましたが、そのためにはトヨタ自身が水素インフラの構築に貢献しなければならないのでしょうか。私は、エネルギーはエネルギー産業が担当すべきだと思います。自動車メーカーがそこまで気を回さなければならない理由はどこにもない、と思うのです。
牧野:なるほど、私が感じたのは、ほどよい「蹴り感」だったのですね。じつにうまく騙されました(笑)。それと、さきほど水素というエネルギーの社会受容性を上げるということをおっしゃいましたが、そのためにはトヨタ自身が水素インフラの構築に貢献しなければならないのでしょうか。私は、エネルギーはエネルギー産業が担当すべきだと思います。自動車メーカーがそこまで気を回さなければならない理由はどこにもない、と思うのです。
田中:これは個人的な見方ですが、トヨタとして水素を自分で作るということはないでしょう。水素普及に向けた連携は取らせていただく。水素ステーション展開にも協力させていただく。いまは水素の黎明期でもあるので、しっかり連携したいと思っております。しかし、水素利用はエネルギー政策です。将来の水素社会を考えると、自動車が燃料として消費する部分は商用車も含めて3分の1も使えれば御の字ではないかと思うのです。残り3分の1は発電燃料、さらに3分の1は工業用途だと思います。我われは水素で走る自動車を作ることで貢献できると思っています。
牧野:私はFCEVとHEV、BEVは共存すべきだと思います。それぞれが得意領域を伸ばし、適材適所で使われる姿が理想ではないか、と。
田中:ゼロ・エミッションを基本に考えるなら、コンパクトカーはBEVがいいと思います。ヤリスのような小さいクルマでFCEVは現実的ではありません。円筒形水素タンクなので搭載に向きません。トヨタとしてもヤリスサイズはBEVだと思います。いっぽう、トヨタがずっと続けてきたHEVは、現状の発電ミックスを前提にWtW(ウェル・トゥ・ホイール=油井から車輪まで。つまりエネルギーを作る段階からそれを走行で消費する段階までの、すべてのステージでの環境負荷の合計)考えると、燃料消費を確実に抑える効果を得られます。世の中のためになると思います。ただしBEVは、もっと長い目線で見たときに重要です。トヨタはいままでHEVに力をいれてきたのでBEVまでなかなか手が回っていませんでしたが、今後はしっかりやっていくつもりです。
牧野:大きくて重量のあるクルマでもHEVは有効です。FCEVはさらに有効なのでは、と思います。
田中:大型商用車を置き換えるのはFCだろうと思います。たしかにHEVはどんなサイズの車両にも対応できますが、個人的にはカーボンニュートラルという意味ではグリーン水素を使うFCしか解がないと思います。大型商用車をBEV化することは理にかなっていないと思うのです。基本的にはFCは商用にいちばん向いていると思います。水素インフラ整備するにしても、走行ルートが限られているから整備しやすい。それに商用車はいかに稼働時間を延ばすかが重要ですから、BEVの充電時間はまったく無駄です。その意味でもFCがいいと思うのです。
牧野:適材適所、ベストミックスですね。私も賛成です。
田中:水素はまだ馴染みのないエネルギーですから、乗用車でこれ使う意味は社会受容性を上げる点にあると思います。水素を世の中に馴染ませるためにも数を売らなければならない。MIRAIの役割は、ある程度の数を売り、水素の社会受容性を高めることです。そしてFCユニットを商用車に展開し、より近い将来にFC商用車を走らせるようにすることだと思います。
以上が、田中主査へのインタビューである。前回、筆者は「自動車を設計し、開発し、量産するという事業への参入には覚悟がいる」と書いた。その一例として三菱自動車のPHEV(Plug-in Hybrid Electric Vehicle=外部から充電できるハイブリッド車)を挙げた。ICE(Internal Combustion Engine=内燃エンジン)の経験と電動車の経験、それと4輪で車両を理想的に駆動するという駆動系設計の経験が融合した形が三菱のPHEVだった。
今回のトヨタ「MIRAI」もまったく同じである。水素を扱う経験のある企業や電動車の設計を提案するエンジニアリング会社ではなく、自動車を作り続けてきたトヨタだからできるFCEVであり、それを社会に提供し続ける事業継続性こそは、自動車メーカーならではの決意と覚悟の表れである。
いま、世の中はBEV一色に染まっている。ベストミックスという考え方を忘れている。せいぜい1000〜1500回の充放電しかできない、最後には朽ち果ててしまうリチウムイオン2次電池を使い(いまのところ資源としてのリサイクルも後回し)、電力は再エネ発電で賄えると喧伝している。たしかに、ある領域はBEVで充分だろう。しかし、世界中どの国を見ても電力は余ってはないない。BEVに電力を供給するためには、発電量そのものを増やさなければならない。
かつて1980年代末、自由化で電力が余ってしまったカリフォルニア州でBEVを普及させようと電力業界がロビー活動を行なった。カリフォルニア州のZEV(Zero Emission Vehicle=無排出ガス車)規制はそこにルーツがある。その顛末は、あのエンロン破綻だった。石油業界がロビー活動で電力業界に勝った。
日本でも同じころ、出力調整できない原子力発電によって夜間には膨大な供給過剰となる電力をBEVに充電してもらおうと電力業界は考えた。しかしバブル景気によって電力需要は増加の一途をたどり、挙句「BEVに振り向ける電力などない」ということになった。これが1990年を中心とした4年間ほどの「電気自動車ブーム」の正体だった。
エネルギーが絡むと、必ずそこに政治が絡む。欧州のBEVブームは政治主導である。推進者たちは「自動車産業を壊して作り直す」と言う。以前もこのコラムで書いたように、欧州委員会の委員長に就任したウルズラ・ゲルトルート・フォン・デア・ライエン女史は「アメリカの巨大なIT企業や中国の製造業に対抗できるだけの競争力を政治主導で獲得する」と宣言した。欧州全体での産業スクラップ・アンド・ビルドであり、自動車産業は電気へと方向転換させる。世論とファンドを味方につけ、いま欧州は産業革命推進の真っ最中である。
しかし、本当に既存のものがすべて壊れてしまったらどうなるだろう。新たに生まれる産業は、本当に世の中のニーズを満たせるだろうか。自動車で言えば、IT(情報通信)系企業が相次いでBEV市場に参入し、クルマの作り方と競争のルールが変わると言われている。本当にそうだろうか。後編では、そのBEVに焦点を当てる。