(文:安部譲二 イラスト:鐘尾 隆)
ちょうど4年前に、同棲していた年下の男に殺されてしまったメグは、僕と同い歳の昭和12年生まれでした。
ですから死んだ時は、57歳だったはずです。
メグと僕が初めて会ったのは、北関東の鉄火場で、あれは確か昭和34年でしたから、僕たちはまだ若さが匂い立つような、22歳の博奕打ちでした。
170㎝もあって、スリムで奇麗だったメグは、花札もサイコロも達者な女博奕打ちだったのです。
「なぁにあんなもん、横浜の外人バーでついこないだまで1000円で股を開いてたパンパンだよ」
なんて、メグにすってんてんにされた爺ィが、口惜しそうに言ったのを僕は聞いたことがあります。
勿論、1000円と言っても価値が今とではまるで違います。
40年前のその頃と今と比べると、高くなったのは家賃と給料、それに食べものと女で、余り変わらないのが洗濯機、安くなったのがテレビでしょう。
メグはそんな陰口が本当と思われる派手なマスクと、メーキャップのいい女でした。
何度目かの出会いで、僕はサイコロを振ってメグをペションペションにやっつけて、鉄火場の庭に駐めてあったホンダのジュノウというスクーターを、巻きあげてしまったのです。
僕は自分の乗って来たプリムスは、東京から一緒に来た友人に運転して帰ってもらって、メグから取りあげたピカピカのスクーターで、機嫌よく国道を走っていました。
当時のことですから、高速道路はありません。
昔のことなので、月日まではとても覚えてはいませんが、夜中に100㎞/h近くのスピードで走っても、寒くはなかったのですから、きっと5月から10月までの間だったのでしょう。
そして埼玉県警の検問に引っ掛った僕は、怪しまれて捕まってしまいました。
まさか、博奕場で勝って獲って来たなんて、いくら怪しまれても言えません。
北関東のどこそこで、メグという若い女から借りたのだと言っても、お巡りたちは信じてくれませんでした。
メグという通称しか知らなかったのに、次の日の昼間に刑事たちは、
「そのスクーターの持ち主は、内藤ツネ、22歳、住所は・・・・・・」
と、全て僕に教えてくれたのは、流石だったのです。
僕に負けて頭に来ていたメグこと、内藤ツネは、刑事が問い合せても、なかなか素直に口裏を合わせてくれなかったので、僕は熊谷署の留置場に2泊もしなければなりませんでした。
メグと顔を合わせるのは博奕場だけで、寝るどころか一緒に一杯やったこともありません。
気取った手付きで花札を引いていたメグを見ると、本名を知ってしまった僕は、おかしくて堪りませんでした。
ツネなんてお婆さんのような名前では垢抜けなくて、とても恰好のいい女博奕打ちなんか、やっていられなかったのでしょう。
昭和40年に都内の博奕場に行った僕は、駐車場に入って来た真っ赤なポルシェのソフトトップを見て、思わず目を見張りました。
新車ではありませんでしたが、よく手の入れてある美しい356スピードスターだったのです。
エンジンが止まって、ドライバーズシートのドアが開き、まず形のいい左足が伸びて地面を踏んづけると、続いてスリムないい形をした女が姿を現しました。
ドアをロックするところを僕が見ていたら、女は濃くて巨きなサングラスをしていたのです。
そして、僕をみると、
「あら、渋谷の……」
なんて言いました。
久し振りで顔を合わしたメグこと、内藤ツネでした。
「やぁ、久し振りだねメグさん」
ちょっとエンジンルームを見せてくれと、僕が言ったら「あんたも好きね・・・・・・」なんて呟きながら、メグはリヤを開けてくれたのです。
広いエンジンルームに、小さな4気筒エンジンが乗っていました。
「いいね。俺もカブリオレのこいつを探してたんだ」
僕が言ったらメグは、一文だって負からないけど、350万円なら売ってあげると言ったのですが、本当に博奕打ちは明日の命も分りません。
その晩、僕はメグの右手をしっかり押えました。
客の集まるまでの間に3~4人で、コイコイアトサキをやっていた時に、親をやっていたメグは、自分に9枚手札を配ったのです。
本来は親と子に8枚ずつ配る花札を、自分にだけ9枚配ったのですから、これは商売人を舐めた素人相手のイカサマでした。
「舐めちゃいけねえよ」
メグの右手をしっかり掴んだ僕は、手札を9枚握っているのを確認して言い放ったのです。
いかに客が集まる前にやっていた座布団博奕とはいっても、命の次に大事なお金が掛けられているのですから、右手の人差し指を根元から詰めさせるようなイカサマでした。
どうしてメグが、その晩、僕たちを相手にこんなプリミティブなイカサマをやったのか、僕には理解ができません。
「堅気になるんなら、何も言わずに勘弁してやる。そうでなければ指かオトシマエだ」
と、僕はメグに言いました。
青ざめたメグは、どんな女優より凄まじい美しさでした。
しかし、お互いに博奕打ちですから、ケジメをつけなければ、他人様に笑われてしまいます。
「表のポルシェで済みますか・・・・・・」
と、メグは呟いたのですが、他の男たちには何のことだか分りませんでした。
メグは堅気にもならず、商売物の右の人差し指も詰めずに、僕に350万円と言ったポルシェの356スピードスターで、オトシマエをつけようとしたのです。
他の男たちには10万円ずつやって、僕はメグからポルシェの鍵を受け取りました。
そして、
「下駄の替りに使ってくんな。見かけよりはよく走るぜ」
オトシマエの釣りだと言って、僕は乗って来たフィアットの1100㏄の鍵を、メグに抛ってやったのです。
車検証を見たらメグのポルシェは、他のデータは忘れてしまいましたが、気筒容積は1600㏄でした。
クーラーもついていませんでしたが、このスピードスターはとてもよく走ったのです。
30年以上経った今でも、コクピットに響いて来たエキゾーストノートを、僕は忘れません。
低いウインドシールドは、幌をかけるとその途端に視界が悪くなって、シートから背中を離して顔を突き出さなければなりませんでした。
丸2年で4万㎞乗って、僕はこのポルシェを売ったのですが、今でも日本のどこかで走っているに違いありません。
デリケードでしたがタフなクルマで、壊れるようなところがついていませんでした。
僕は昭和56年に足を洗いましたが、メグこと内藤ツネは、男に殺されて死ぬまで博奕打ちだったのです。