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百人一首と言えば、まずカルタを思い浮かべますが、最初からカルタだったわけではありません。百人一首の成立については、回を改めて紹介しますが、最初は一首一首がそれぞれ色紙に書かれていたという推測もあります。それが、戦国時代のスペインやポルトガルなどヨーロッパ文化の流入でトランプのようなカードゲームが紹介されたのち、近世の初め頃にカルタに作られたようです。とはいえ、一方で伝統文化を受け継いでいる面も大きいのです。
百人一首の読み札には、各歌人の肖像が描かれていますが、その元は優れた歌人の肖像を描いた「歌仙絵」にあります。
歌人として歌道家の始まりとも言える六条藤家を率いた藤原顕季(ふじわらのあきすえ) は、元永元(1118)年の歌会の場で、『古今集』から歌聖とされる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の画像の供養をする人麿影供(ひとまろえいぐ・人麻呂影供)を催しますが、これが歌人を描いた画像の早い例です。
その後は鎌倉時代にかけて、藤原隆信・信実父子が名手とされる“似せ絵”が盛んとなり、すでに藤原公任に選ばれていた三十六歌仙の肖像を描き、彼らの代表歌を添えた名品「佐竹本三十六歌仙絵巻」や、後鳥羽院が時代の異なる歌人の歌を対(つい)にして作った「時代不同歌合」で歌人の像を描いた絵巻形式のものなどが製作されます。これらがやがて伝統となり、百人一首の読み札の形式になったのだろうと考えられます。一方で取り札は、冒頭に紹介した、和歌を色紙に書いた形式に倣ったと見なすことができるでしょう。
書道や日本の古典美術に関心のある方なら、美術館や博物館の展示で古い百人一首のカルタをご覧になったことがあると思います。読み札と取り札がありますが、取り札は一首の後半の下の句だけが書かれていますが、文字が変体仮名であるところが現代の物との大きな差です。
読み札には、作者として貴族の男性、あるいは女性、または僧が描かれ、その肖像に和歌が加わります。
現代の百人一首カルタなら、ここに一首全体が書かれていますが、そこに昔の札との差があります。
昔の読み札は一首全体でなく、前半の上の句しか書かれていないため、見た目は現代のものより、よほどすっきりしています。
下の画像は、作者・三条院(三条天皇)のカルタです。右が読み札で、院の肖像の上部に、「三条院 心にも あらて うきよに なからへは」と、作者の名前と上の句だけがあり、左が取り札で、「恋し かるへき 夜 はの 月 かな」と下の句があります。
現代版のカルタであれば、読み札は「心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな」と書かれます。皆さんが持っているカルタと比べて見れば違いがわかると思います。
この差の理由は、明らかにはなっていません。競技の百人一首で勝つためには、読み始めで取り札の冒頭がすぐ思い浮かぶことが肝心です。
上に掲げた現代の読み札の在原業平の歌ならば、冒頭の「ちはやぶる」と読み始められたら、それに続く「神代も聞かず」は飛ばして、即座に下の句の冒頭「から紅に水くくるとは」を思い浮かべ、札に向かって突進しなければ勝つことができません。だから、読み札の下の句は不要だったのか、とも考えられなくもありませんが、それでは初心者では勝負になりません。
おそらく、本来はカルタ取りの勝負のためではなく、一首二枚セットの鑑賞用として作られたのではないかと思われます。それなら二枚合わせて一首が書かれていれば十分です。実際、いわゆるカルタ取りは江戸時代から始まっていたとされますが、はっきりせず、今のように整備されたのは、明治になってからです。当時「万朝報」社長だった黒岩涙香により「東京かるた会」が結成され、明治三十七(1904)年二月十一日に初めての大会が開催されました。
今回は、百人一首のカルタについての説明でした。百人一首は、一首一首を丁寧に見つめ、同時に全体をも見直すと様々な面白さが詰まっていることに気づきます。次回から、もう少し内容に入るつもりです。家にカルタをお持ちの方は、ぜひ百人一首をお手許に用意してみてください。
《参照文献》
淡光ムック 百人一首入門 有吉保・神作光一 監修(淡光社)
季刊墨スペシャル 百人一首(芸術新聞社)
別冊太陽 百人一首への招待 吉海直人 監修(平凡社)