津田梅子は1864(元治元)年12月、西洋農学者・津田仙の次女として現在の新宿区南町に生まれました。満6歳の時に岩倉遣米欧使節団に随行してアメリカに留学、18歳で帰国すると華族女学校や女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で教鞭をとり、2度目のアメリカ留学を経て1900(明治33)年、36歳の時に「女子英学塾(現・津田塾大学)」を設立したのです。後年は、日本YWCAの初代会長を務めるなど教育事業家としても活躍しました。生涯、日本女子教育に心血を注いだ偉人「津田梅子」の“ゆかりの地”をご紹介します!

新五千円札は“日本女子教育の先駆者”津田梅子


華族女学校遺蹟碑/東京都千代田区

1885(明治18)年に開校した華族女子の教育機関「華族女学校」で、津田梅子は教授として英語を教えていました。女学生たちの制服は洋装でしたがなかなか定着せず、袴が導入されたそう。袴にブーツというスタイルは、やがて全国の高等女学校に普及していきます。華族女学校はのちに女子学習院、学習院女子中高等科となり青山や新宿区戸山に移転しましたが、現在参議院議長公邸東門がある華族女学校跡地には遺蹟碑が立っています。また門柱に乗せられていた笠石は、現在学習院女子中高等科・大学の図書館前の木陰に置かれています。

華族女学校遺蹟碑

■所在地 東京都千代田区永田町2-18-2

■アクセス 【電車】東京メトロ「永田町」駅より徒歩1分

■天候など諸事情によって条件が変わることがありますので、詳しくは学校法人学習院オフィシャルサイトをご確認ください

袴にブーツ姿の“はいからさん”は華族女学校の制服が始まりともいわれる


津田塾大学発祥の地/東京都千代田区

千代田区の開新堂ビル南側壁面に「津田塾大学発祥の地」の金属プレートがあります。1900(明治33)年、津田梅子はこの地に「女子英学塾」を開校しました。私立の女子高等教育機関の先駆けで、全国から集まった塾生10人でのスタートでした。それまで女子教育は行儀作法や花嫁修業のようなものでしたが、津田梅子は女性が社会で活躍するための実用的な教育を目指しました。1919(大正8)年に津田梅子が塾長を退いた後、女子英学塾は津田英学塾、津田塾大学となり、今に続いています。

津田塾大学発祥の地

■所在地 東京都千代田区1-27

■アクセス 【電車】東京メトロ「半蔵門」駅5番出口より徒歩3分

■天候など諸事情によって条件が変わることがありますので、詳しくは千代田区観光協会オフィシャルサイトをご確認ください

今日の日本女性の自立や社会進出は、津田梅子のお陰かも・・・・・


海菜寺(うなじ)/神奈川県鎌倉市

1919年(大正8)年、健康上の理由で女子英学塾塾長を辞任した津田梅子は、鎌倉の別荘に移り住み療養していましたが、1929(昭和4)年、脳出血のため64歳で亡くなりました。最期を過ごした別荘は、目の前に稲村ケ崎の海が広がり静かな波の音と湘南の風が心地よい住まいでした。激動の明治を生きた津田梅子も、この地で穏やかな日々を心安らかに過ごしたのでしょう。現在はレストラン「「海菜寺(うなじ)」となり、鎌倉野菜や葉山牛、腰越の地魚などを活かした料理で訪れる人をもてなしています。

海菜寺

■所在地 神奈川県鎌倉市稲村ガ崎3-7-11

■アクセス 【電車】江ノ島電鉄「稲村ケ崎」駅より徒歩5分

■天候など諸事情によって条件が変わることがありますので、詳しくは海菜寺オフィシャルサイトをご確認ください

稲村ケ崎——病気静養中だった津田梅子も、この景色に癒されたはず


津田梅子墓所/東京都小平市

1929年(昭和4)8月16日、日記に“Storm last night(昨夜、嵐)”と記したその日に津田梅子は亡くなりました。小平に女子英学塾新校舎が完成する2年前のことです。「できればこの地に眠りたい」と遺書にしたためていた津田梅子の遺志を継ぎ、小平の校地内に墓所が造られました。その許可を取り付けるには東京府(現東京都)との激しい折衝があったそう。現在の津田塾大学小平キャンパスの校舎から少し離れたグラウンドの奥、「Ume Tsuda」の墓碑銘が刻まれた石碑に、新五千円札の顔となる今後も多くの人が手を合わせるでしょう。

津田梅子墓所

■所在地 東京都小平市津田町2-1-1津田塾大学小平キャンパス内

■アクセス 【電車】西武国分寺線「鷹の台」駅より徒歩約8分

■天候など諸事情によって条件が変わることがありますので、詳しくは津田塾大学オフィシャルサイトをご確認ください

今なお日本の女性リーダーを輩出している名門・津田塾大学

情報提供元: tenki.jpサプリ
記事名:「 新紙幣の偉人“ゆかりの地”に行ってみよう!~津田梅子編~