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「禮記月令」ではこの時期について、
土潤溽暑、大雨時行、燒薙行水、利以殺草、如以熱湯、可以糞田疇、可以美土強。
と記しています。意訳すれば、「土は暑気にまみれて湿り、時に土砂降りの通り雨が降る。熱く熱した湯のような水が流れて、まるで焼き払われるように雑草を死滅させる。そこで田畑に堆肥を施すと、土壌は強健となるであろう。」と、自然の事物が湿・熱の気を受けて腐敗し、どろどろに溶けるこの時期にこそ積極的に施肥をして、来るべき秋の収穫に備えるよう促しています。大暑の後半ともなれば、稲も出稲期に入り、大切な受粉の季節に入ります。
そんな大暑の初旬、初候は貞享暦以来、和暦では「桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)」(中国宣命暦では「腐草為蛍」)。
意味は桐(きり)の花の蕾が出穂する頃、という意味です。歳時記やウェブ辞書では「桐の実が実る頃」と解説していますがこれは間違いです。「七十二候鳥獣虫魚草木略解」(1821年・春木煥光)では、この候を
結花トハ蕾ノ生スルナリ
と当たり前のように記し、江戸期の人々が身近に桐の木に親しみ、その生態をよく知っていたことをうかがわせます。桐(Paulownia tomentosa)は、4月末から6月初旬ごろの初夏に大きな藤色の花房をつけますが、そのほぼ2ヵ月後、つまりちょうどこの大暑初候のこの時期に、早くも翌年の花の蕾の房が、神楽鈴のような姿で顔を出すのです。蕾は全体が褐色で毛がびっしり生えた厚い花愕にびっちりと包まれて、約10ヶ月間、枝についたまま冬越しをするのです。風雨に傷つきはしないの?虫や鳥に食べられないの?と心配や疑問がありますが、ともかく桐は、そうした生態をもつのです。おそらくその理由は、桐という植物のもつ独特の性質にあるのではないかと思われます。
桐は、かつてはシソ目ゴマノハグサ科、またはノウゼンカズラ科に分類されていましたが、現在はキリ科として独立種となっています。筒型の花の形を見ると、確かにかつてゴマノハグサやノウゼンカズラの仲間とされていたこともわかりますし、かつてゴマノハグサ科とされていたジキタリスとも、やはり花だけを見れば似ています。
しかし、桐の特異な性質は、花だけを見ていてもわかりません。ともかく桐は、まるで生き急ぐように急激な成長をとげる木なのです。高さ10メートル以上の高木になるのに十数年ほどと短く、特に若木の頃は一年で2メートルも伸びるとも言われます。桐の種子は透明な羽根の生えた細かな種子で、風に乗って拡散し、どんな荒地でもパイオニア植物の一つとしてすぐに芽吹き、他の植物が生長する前に巨大な葉を広げていち早くぐんぐん伸び上がるのです。切っても切ってもキリがないというその生命力から、「キリ」と名がついたという説もここから来ています。女子が生まれたら庭に桐を植えよ、そうすれば嫁入りごろには桐のたんすを仕立てられる、という言い伝えも、この成長の早さゆえです。同じように成長が早い竹がそういわれるように、桐は正式な木ではなく草の仲間である、という説もあります。
しかし、ゆっくりと成長するほかの樹木と比べると、急激に成長した桐はいかにも突貫工事で仕立てた掘っ立て小屋のよう。いわゆる五七の桐と呼ばれる桐花紋は端正ですが、現物の桐は樹形も整わず、全体に不恰好と言ってよい姿をしています。遥か見上げるように樹高は高く、横に伸びた枝は威勢よく四方にひろがってはいますが、木のスケールと比べて極端に枝の分岐が少なく、全体にスカスカしています。幹の部分も日本の木材としてはもっとも比重が軽く、隙間だらけ。中心部には空洞まであります。
しかし、そんなに雑に育ったはずなのに、桐材は最高級材木として重宝されています。それは、一定で美しいまっすぐの木目が入ったその美しさ、そして発泡スチロールのように空気を多く含み、防湿性、断熱性、防水性に富んだ材質にあります。その上割れにくく、寸法安定が高く精密加工に優れ、復元性もきわめて高い(多少の傷やへこみは修復される)ため、箪笥や建具、日用品などさまざまな用途に使用可能。そして、ほとんどの木材に天然で含まれている毒性のあるホルムアルデヒドを含まないのも優れた特徴です。
気は短くてお調子者だが、曲がったことはデエッキレエ、少々見てくれは悪くても謗られてもこうと決めた筋は通す。江戸っ子のような木だと思いませんか?江戸っ子かたぎは、勿体ぶったり満を持して溜め込むのが大の苦手。出来ちゃったものはすぐに出す。宵越しの金は持たない。翌年の蕾も出来たらすぐにおもてにつけておく。来年の祭り(開花期)が待ちきれねえ、というわけでは、まさかもちろんないのでしょうが、桐の木の常に全力で伸張・拡散しようという性質が、花の蕾にも現れているのかもしれません。
夏の蒸し暑さにうんざりしている私たち人間も、そんな元気いっぱいの桐の木の蕾を見ると、ちょっと元気をもらえる気がしませんか?
温暖化にヒートアイランド化している現代よりはずっとましだったとはいえ、昔の江戸の人々も、日本の過ごしづらい夏をさまざまな工夫で乗りきって来ました。
土用丑の日のウナギをはじめとして、江戸時代の民衆文化には、風鈴、吊りしのぶ、金魚、朝顔、花火などなど、夏にちなむものが殊に多いのもその表れでしょう。夏の日本の定番ドリンク「麦茶」もそのひとつ。
麦茶の原料となる六条大麦(食用にする収量の多い大麦。ビールに加工する大麦は二条大麦と呼ばれます)が日本に伝わってきたのは紀元前2~3世紀ごろのこと。奈良時代には広く栽培されるようになり、繊維質にとんだ大麦を押し麦(精白・過熱して平たく潰す)にして米と混ぜて食べていました。また、大麦を煎り、水につけてふやかして食べてもいました。ふやかした漬け水も飲んでいたのが、麦茶の始まりとも言われます。文献上では、平安時代の百科事典・和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう 934年頃)に、大麦を乾かして炒り、粉にしたものを湯水に溶いて薬として服用する記述があり、江戸時代初期ごろになると、この麦の粉末を夏の暑いときに冷水に溶かして飲むという風習が広まり、さらに江戸時代後期の随筆集・燕石十種(えんせきじっしゅ)所中の寛天見聞記・夢浮橋附録(豊島屋十右衛門)では、現在の日本橋から神田界隈の様子を記した部分で、「夏の夕方より町毎に麦湯といふ行燈を出し往来へ腰懸の涼台をならべ茶店を出すあり」と記載され、麦茶が庶民の夏の飲み物として供される風習が広まっていたことがわかっています。
やがて麦茶は、戦後家庭に冷蔵庫が普及すると、冷たく冷やした常備ドリンクとしておなじみとなります。今や水出しパックやペットボトルの麦茶が一般的かもしれませんが、炒った大麦を大きなヤカンで煮出して作る、あの独特の香ばしい香りは、ある世代より上の人には夏の思い出をよみがえらせてくれる懐かしいものではないでしょうか。
現在でも麦茶は、水分とともにミネラル分を補給できる優れた飲み物の一つです。特に暑さの厳しいこの夏。麦茶を飲んで乗り切りましょう。