近年耳にすることの多くなった「コンプライアンス」。口にするときはあまり良い心地の言葉ではないかもしれない。しかしシャシーエンジニアにとっては昔から必須の考え方である。
TEXT:安藤 眞(ANDO Makoto)
「コンプライアンス」といえば、多くの人は「法令や倫理の遵守」という意味に捉えるのではないかと思う。ところが自動車技術者(特にサスペンション設計者)にとっては、まったく違う意味のほうが、馴染みは深い。正式な和訳は未だに見たことがないが、意訳すれば「外力によるタイヤ姿勢の変化」となろうか。
よく使われるのが、「前後コンプライアンス」と「コンプライアンス ステア」のふたつだが、これを順次、説明していこう。
まず「前後コンプライアンス」。走行中のクルマのタイヤは、突起を踏むと、下から上への入力を受けると同時に、前後方向にも入力を受ける。上下方向はサスペンションリンクの幾何学的な自由度によって容易に動くように作られているが、前後方向には(建前上は)動かないようになっている。「建前上は」と書いたのは、関節点がすべてボールジョイントだとすると、幾何学的には前後方向の自由度が拘束されるからだ。
ところが実際のサスペンションは、ロードノイズやゴツゴツ感を緩和するため、関節点にはゴムブッシュを使用するケースが多く、ゴムの撓みによって、前後方向にも多少は変位するようにできている。この動きを積極的に使い、前後方向のショックを吸収しようというのが、「前後コンプライアンス」という考えかただ。
これはストラット式フロントサスペンションを例に考えると分かりやすい。ストラット式のロワアームは、かつては二等辺三角形に近い形をしているものが多かったが、近年は直角三角形に近い形にしているものが増えてきた。これは、横力を前側ブッシュに支持させて、前後力が入ったときには、ロワアームが前側ブッシュを支点に回転し、タイヤを後方に逃がしてショックを吸収することを狙ったものだ。ブッシュのチューニングも、前側は横方向(軸直角)に硬く、後側は柔軟に設定すると、大きな効果が得られる。
もうひとつの「コンプライアンス ステア」は、主にリヤサスペンション設計時に用いられる考えかた。タイヤは進行方向と回転面の間に微少なズレ(スリップアングル)が生じたときに、コーナリングフォースを発生する。ならば、旋回や駆動/制動時に生じる外力を利用して、スリップアングルを増大させれば、後輪のコーナリングフォースは高まり、車両の安定性も高められる、という考えかたである。
外力の種類には、①横力、②制動力、③駆動力がある。これを順次、説明していこう。
① 横力は旋回中の横Gによって発生するので、サスペンションの横力支持構造の剛性比を、アクスルセンターを挟んで「前<後」にしておくことで、後輪を旋回方向にステアさせることができる。例えばロワリンクが2本ある場合、前側のブッシュの軸直角剛性を後側のそれより小さくするか、それぞれのロワリンクのアクスルセンターからの距離を「前<後」とすれば、横力によって旋回方向にステアさせることができる。
② 制動力を利用する場合は、リンクの配置や長さを工夫する。同様に2本のロワリンクで考えると、長さを「前<後」とするか、前側に後退角を、後側に前進角を付けることで、制動力(タイヤ接地面を後ろに引っ張る力)が作用した際に、トーをインに向けることができる。旋回制動時にこれを利用すれば、後輪の横力が高まって、スピンを抑制することができる。
③ 駆動力を利用する場合は、制動力の逆をやれば良い様に思えるが、それでは両方の条件でコンプライアンス・トーインを得ることはできない。ところがそこは良くしたもので、制動力の着力点がタイヤ接地面中心であるのに対し、駆動力の着力点はホイールセンターになるため、この違いを利用することで、双方を両立させることができる。
ここで必要になるのが、「キングピン軸」という考えかただ。後輪は特別な場合を除いて操舵機構は持たないが、幾何学的な操舵軸は存在する。ダブルウィッシュボーンやマルチリンク式ならば、上下それぞれのリンクの瞬間中心を結んだ軸が、それになる。このキングピン軸の位置を、タイヤ接地面ではタイヤセンターの外側に、ホイールセンターでは内側にくるように配置すれば、制動時にも駆動時にも、トーをインに向けるモーメントを発生させることができる。
両立が必要なのは、後輪に駆動力がかかるケースだけ。同じ「マルチリンク」でも、前輪駆動車と後輪駆動車ではリンクの配置や構成がまったく異なるのは、こうした理由によるところが大きい。