作家・安部譲二の華麗な自動車遍歴コラム『華麗なる自動車泥棒』連載第2部スタート!クルマが人生を輝かせていた時代への愛を込め、波乱万丈のクルマ人生を笑い飛ばす!月刊GENROQ‘97年4月から56回にわたり連載された『クルマという名の恋人たち』を、鐘尾隆のイラストとともに掲載。青年期からギャング稼業時代、そして作家人生の歩みまで、それぞれの時代の想いを込めた名車、珍車(!?)が登場します。稀代のストーリーテラー安部譲二のクルマ語り!
(文:安部譲二 イラスト:鐘尾 隆)
第23回 シトロエン2CVチャールストン’ 92
京子は、いい女でした。
今から6年ほど前に、21歳のお誕生日を祝った京子は、
「あたし、シトロエンの2CVチャールストンを買うことに決めたわ」
と、叫んだのです。
いい趣味だとオッサンの僕は思ったのですが、そのパーティーに集っていた京子の友人たちは、
「軽トラより遅くて、横浜に行って帰って来たら30歳になっちゃうぜ」
とか……
「なに、そのドウシェボーって……」
なんて口々に叫びました。
いい歳なのだから、これまでにあのブリキみたいなクルマに乗ったことがあるか……と、僕に訊いた青年がいたので、
「ウン、ある。しかし、もうほとんど30年も前だから、僕の乗っていたのは500㏄もなかった2気筒で、ちょっとした登り坂になると、それまで80㎞/hでボソボソ、ゴロゴロ走っていたのが途端に50㎞/hぐらいにドロップしてしまった」
ちょっと参ってしまったほどの弱馬力だけど、燃費もいいし、それにシートの具合がなんとも言えないほどよくて、乗り心地がよかったのを覚えていると答えたのです。
「速く走ることは必要とされてはいないの。個性を主張しているクルマに、あたしは乗りたいのよ」
主婦や会社員の亭主が乗るようなクルマには、もらっても乗りたくないのだと、デザイナーを目指して努力していた京子は言い放ちました。
京子が長いローンでエンジ色の2CVを買って3ヵ月経った頃、乗せてもらったら後ろのシートに若い縞の仔猫がいて、乗って来た僕を見て「ニャー」と啼いたのです。
驚いた僕に京子は、この2CVを買って1週間も経たない間に、よんどころない事情でジェニファーも拾ってしまったのだと言いました。
「ジェニファー……」
その当時の僕の恋人が、ジェニファーという名前だったので、呆れてまじまじと見たら、後部座席にいた縞の仔猫は、コ・ドライバーズ・シートにいた僕の横まで来て、
「京子、このオッサンは誰なの」
みたいな顔をしたのです。
僕の恋人が同じ名前だということは、この仔猫も飼主のいい女も知りません。
「走るとこぼれちゃうから、これは捨てましょうね」
なんて京子は言って、水の入っていた器を取ると、中の水を外に捨てました。
それを見て僕は、この仔猫が2CVに住んでいるのだということを知ったのです。
見たらキャットフードを入れる器も、それにクッキーの缶のトイレも、後ろのフロアにちゃんとありました。
「ジェニファーは、この2CVの中に住んでいるんだね」
僕が言ったら京子は頷いて、雨が降ってビショビショになっていたジェニファーに、とても可愛くインファイトされたので、歩き去るわけにはとてもいかなかったのだが、血も涙もない両親は、建てたばかりの家で猫を飼うことを、拒絶したのだと言ったのです。
ボクシングが大好きな京子は、仔猫にまといつかれたことを、インファイトされたのだと言いました。
「家なんていつまでも新しいもんじゃないわ。母だって30年前はわたしと同じピカピカの娘だったのに、今では三段腹の婆様(ばあさま)よ。
それなのにジェニファーが飼えないなんて言うんだから、我が両親ながら何という心の狭い哀しい人たちなんでしょう」
若い娘は辛辣なことを言うものですが、素敵な女でなければただの口汚ない悪罵です。
いい女が同じことを言うと、ユニークでとても可愛いのが不思議でした。
2CVの中にいた京子とジェニファーは、何とも言えず綺麗でチャーミングだったのです。
仕方がないので、それ以来ずっと2CVの中で飼っていて、つい2週間前に、それまでの飼主と猫の関係から、姉妹になってしまったのだと京子は笑って言いました。
いい女は泣いても笑っても、怒ったって素敵なのです。
「成長が早くて、僅か3ヵ月でこんなに大きくなったのよ」
と、目を細めて姉はダッシュボードから生えているシフトレバーを、ガチリとローに入れて、ボロボロババババッと回転を上げて走り出したのです。
倹約するというよりも、フランス人はむしろ徹底的に無駄を省く人たちですから、燃費と維持費のかからないことを目的にした2CVは、スピードなんかまるで出ません。
スピードを出すのが楽しい人は、他のクルマを買ってくれ……と、いうことなのでしょう。
フランス人に限らずヨーロッパの人たちは、全てを兼ねるようなクルマは、あまり好まないのです。
しかしそれにしても2CVは、かなり極端なクルマでした。
よく言えば個性的で洒落ているのですが、弱馬力なのは僕の乗っていた30年前も、京子の92年式も同じでした。
ジェニファーは後ろのシートに敷いてあった専用のブランケットに戻って、気持ちよさそうに昼寝を始めたのです。
「寒くなったら何か暖房を考えてあげなきゃいけないわ。
ホラ、手で揉むと熱くなるのがあるでしょう。あれはひと晩もつかしら」
話しながら京子はシフトアップして、上手に弱馬力のクルマを走らせました。
綺麗な娘と、禿げのデブチンのオッサンに、後ろのシートで長くなっている仔猫の取り合せがおかしいのか、信号機で隣りに並んだ小型トラックのあんちゃんは、目が合うとニコリと笑って頷いたのです。
「背が高くなくてもいいし、ハンサムでなくったって構わないから、あんな心が広くて優しい男と恋をして、ジェニファーも一緒に暮したいわ」
と、京子が呟いたので、僕は慌てて、まだ早い、早や過ぎるなんてうろたえた浅ましい声で言いました。
それから5年の月日が、それこそ矢かミサイルのように流れて、ある日、京子から絵葉書が届いたのです。
見たら美しい南の島で、アメリカの切手が貼ってありました。
「妹を連れて来いと言ってくれた日系の男と恋をして、ハワイにお嫁に来ました。
主人もとてもお目に掛るのを楽しみにしているので、どうぞマウイ島にいらっしゃったらお電話を下さい」
なんて、いつでも皮肉で辛辣なことを言い放っていたいい女が、極くまともなことを書いて来たのに、僕は時の経ったことを知ったのです。
お嫁に行く時に、2CVを京子がどうしたのかは知りません。
おそらくマウイ島へは、持って行かなかったと思うのです。
仔猫の頃からずっと2CVの中で育ったジェニファーは、マウイ島の猫とは言葉が通じないで、困っているかもしれないなんて僕は思いました。
今年の10月に、シニアトーナメントのプロアマに招待されている僕は、マウイ島に行ってゴルフをします。
京子と亭主、それに大きくなった猫のジェニファーに会うのが、今からとても楽しみです。
ジェニファーはまだ僕を覚えていて、インファイトをしてくれるでしょうか。