中国の独立系(非国営)自動車メーカーである吉利汽車がマレーシアのプロトンに49.9%出資し事実上の支配下に収めた。三菱自動車の支援でクルマづくりに参入した元国策企業は、設立から34年目に自動車後発組である中国の企業に買収された。同時にこれは「日本車天国」ASEANに打ち込まれたクサビである。
(ジャーナリスト・牧野茂雄がレポートする)
中国国営大手・上海汽車がタイに工場を建設したのは3年前だった。14年8月にMGブランド車の生産を開始した。MGローバーは2005年に経営破綻し、その知的財産および資産は上海汽車と南京汽車が買収したが、中国政府がこの件を「2社での分割支配は重複投資だ」と非難し、南京汽車を解体し上海汽車に一本化するという強硬手段を採ったため、MGローバーはすべて上海汽車のものになった。
ランドローバー部門はフォードが所有していたため、これはインドのタタ財閥が買収した。ちなみにランドローバーの商標権はタタのものだが、「ランド」の付かない「ローバー」の名称はフォードがまだ手放さない。そのため上海汽車はローバーに発音が似たロエベ(荣威)を使う。
今回、マレーシアの国策自動車メーカーとして83年に誕生したプロトンは、中国の国営ではない独立系の吉利汽車に買収された。国営ではないが、吉利汽車は地元浙江省の銀行が支援しており、CEO(最高経営責任者)である李書福氏は政府とのパイプも持っている。
中国の私企業である吉利汽車が10年にボルボ・カーズを買収したときも驚いたが、今回、プロトンに出資したことで、プロトンが主要する英・ロータス・カーズの株式51%も吉利が手にした。世界的に知名度のある欧州ブランドふたつを吉利汽車が持つことになったのである。ASEANでもこの2社は知名度がある。
ボルボはルノーと協業関係にあったころ、 TSA(タイ・スウェディッシュ・アセンブリー)というタイ資本の組み立て会社にCKD(コンプリート・ノックダウン=全部品を輸入して組み立てだけを行なうこと)を委託していた。そのTSAは12年に閉鎖され、現在は完成車輸入が行なわれているが、吉利の出資によってボルボは中国に車両工場を持つに至り、ここからASEANへ域内の完成車輸出が行なわれるとすれば、スウェーデン製の輸入に比べて価格競争力はグッと高くなるだろう。
プロトン(正式にはプルサハーン・オトモビル・ナシオナル=国家自動車工場の意味)は、立ち上げ当初は三菱自動車が唯一のパートナーだったが、95年に仏・シトロエンと提携、翌96年にはブガッティから英・ロータス・カーズを買収して三菱色を薄める。
さらに04年には英・MGローバーとも提携した。ロータス・エンジニアリングはプロトンの依頼を受けて三菱・ミラージュの改良を行ない、FF乗用車「ジェン2(Generation 2)」として設計を提供し、エンジンはロータスとプロトンが三菱製を下敷きにした改良を実施し「ジェン2」に搭載した。これが04年だった。
プロトンの最大株主は、設立時はHICOM (マレーシア重工業公社)であり、当時のマハティール・ビン・モハマド首相が「影の社長」だった。同首相はルック・イースト(東に見習え)を掲げ、欧米ではなく日本を手本に経済発展しようと国民を鼓舞する一方で、HICOM人選によるプロトンのマレーシア側役員は異常にプライドが高く、しばし三菱側と対立した。
マハティール首相自身もしばしば「三菱自動車は我われに肝心な技術を教えてくれない。技術移転の速度が遅すぎる」とメディアを通じて批判し、三菱への当て馬としてシトロエンとの提携を指示した。しかし、シトロエンに依頼してもプロトンが望んだ「社内で自動車の設計・生産のすべてをこなせる体制」は完成しなかった。結局、三菱色を薄めたことがプロトンの苦難の始まりだった。
ちなみに、ロータス・カーズの買収はマハティール首相の個人的趣味だった。氏はロータスのコレクターでもあった。しかし、ロータスとプロトンでは守備範囲があまりにも違い過ぎ、プロトンの実務には生かせなかった。当時、 HICOM関係者から私は「トヨタと提携したい」と聞かされた。