クルマ好きの間でよく語られる話題がある。それは「日本から世界に誇れるスーパーカーは誕生するのか?」ということだ。
そして、この話題が出たとき、ボクはかならずこう答える。
「まず無理だろう」、と。
スーパーカーとは性能のみを指して語られるべきではない
その理由はいくつかあるが、最近では「スーパーカーとは、性能のみを指して語るべき存在ではない」ということが大きな理由だ。
かつて「スーパーカー」というのは、スーパーな走行性能を持つクルマのことを指していた。 だが、現代ではどうだろうか? メルセデス・ベンツやBMW、アウディのサルーンでもスーパーカー顔負けの加速性能や最高速を誇るようになった。
だが、それらの性能がスーパーカーの領域に達したとして、そういったサルーンをスーパーカーと呼ぶだろうか?ボクは残念ながらスーパーカーとそれらを呼ぶことを認めるわけにはゆかない。
ボクは、スーパーカーに重要なのは「華」だと考えているからだ。
その「華」とは何か?ボクは「非日常性」と言い換えてもいい、と思う。
たとえば、992世代となった新型ポルシェ911カレラSの性能はもはやスーパーカーだと言っていい。だが、ポルシェ911カレラSをして「スーパーカー」だと呼べるだろうか?
ボクは「ノー」だと考えている。
なぜならポルシェ911は、「日常性」を重視したクルマだからだ。そういった理由では、もちろんスーパーカー並の性能を持つサルーンを「スーパーカー」とは呼べないと考えている。
スーパーカーに必要なのは非日常性だ
そして、日本はそういった「非日常性」を創り出すことに慣れていない。それは日本の根底にあるのが合理主義だからだとも考えている。
スーパーカーは「非日常」の存在であり、ある意味では「無駄」な存在だ。 しかし残念なことに、日本人は「無駄」を創り出すことに不慣れだ。
一方で、日本の自動車メーカーは高い技術を持っている。 それは疑いようのない事実だ。
だから、スーパーカー並みの性能を持つクルマをつくることはできる可能性を持っているし、もしかしたら「それ以上の性能」だって実現できるかもしれない。
だが、日本の自動車メーカーの場合、おそらくは「合理性」を追求するはずだ。 そして合理性を説明できないものは会社という組織の中では許されない。