「百人一首」は、ほぼ作者の時代順に配列されていて、冒頭が天智・持統の二人の天皇、末尾が後鳥羽・順徳の二人の院(仏門に入った上皇)で、どちらの二人も親子でした。
以前までのコラムでは、中間に位置する皇族の陽成院・光孝天皇・三条院を紹介してきましたが、今回は残りの1名の皇族で、77番の崇徳院の歌と作者についてご紹介しましょう。
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崇徳院の和歌
〈瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ〉
歌の内容は、川の流れが速いので、中に立つ岩に堰かれる滝川が二つに分かれるが、それも下流では合流して一つになるように、恋人と別れても、いずれはまた逢って必ず一つになろうと思う、というものです。
この歌は、「久安百首」中の1首です。久安百首は崇徳院が自身のほかに当代の歌人13名とともに、それぞれが百首を詠んで合わせたものです(「作者別久安百首」とも言われます)。
その後、歌人のうちの一人だった藤原俊成が、久安百首を作者ごとの歌題による分類に再編成して、「部類本久安百首」を編纂しました。
もともと、この崇徳院の歌は、初句が「ゆき悩み」で、第三・四句は「谷川のわれて末にも」でした。初句で山川の流れの複雑さに恋の困難や苦悩を象徴させた表現でしたが、部類本編成に際して、「瀬を速み」と「滝川のわれても末に」に替えられました。流れの激しさで恋の一途な情熱を表す方が迫力があるとされたのでしょうか。
その後、崇徳院が編纂を命じた勅撰和歌集「詞花集」の「恋上」に、部類本に従った本文で、院の百首の中で唯一入ったのがこの歌です。
崇徳院は幼時から和歌を好み、親しい人々との歌会を催していました。中でも久安百首と詞花集の編纂は彼の生涯の中でも最も大きな催しでした。
勅撰和歌集で崇徳院の和歌は81首と、歴代天皇中では多く入れられていますが、この歌が院の代表歌と言えるでしょう。
崇徳院の人物像、保元の乱まで
崇徳院は、74代・鳥羽天皇と待賢門院璋子の皇子として元永二(1119)年に生まれ、保安四(1123)年に5歳で第75代天皇として即位しました。それは曾祖父の白河院が強く進めたことです。
これについて、説話集の「古事談」に、崇徳院の本当の父は待賢門院を幼児から養っていた白河院で、鳥羽天皇は崇徳院を「叔父子」(鳥羽天皇にとって白河院は祖父であり、その子が崇徳院なら、それは父の弟だから叔父にあたり、同時に我が子でもあるための呼び名)と言ったとあります。
真偽は不明ですが、鳥羽院は崇徳院を疎んじて、永治元(1141)年、崇徳院が23歳の時、美福門院得子を母とする3歳の弟・近衛天皇に譲位させます。しかし、近衛天皇は久寿二(1155)年に17歳で病没し、その時に崇徳院は自身の皇子・重仁親王の即位を期待しますが、それにも鳥羽院は新たに待賢門院を母とする崇徳院の弟・後白河天皇を即位させてしまいます。これにより崇徳院の家系からの天皇即位の道は絶たれました。
同じころ、摂関家でも藤原忠実が嫡子の忠通と不仲で、弟・頼長を重んじることがあり、忠通と頼長との間は一触即発という状況でした。鳥羽院の権威のみが事態の緊張を支えていましたが、保元元(1156)年七月二日に鳥羽院が崩御すると、堰を切るように後白河天皇と忠通は、武士の力を使って、一挙に崇徳院と頼長の排除を図ります。同年七月十一日未明、後白河天皇・忠通側の高松殿を拠点とした源義朝・平清盛らの率いる武者総勢600騎が、崇徳院・頼長を源為義・平忠正らが守る白河北殿に攻めかかり打ち勝ちます。これが保元の乱です。頼長は戦いの中での矢傷が元で死去し、崇徳院は讃岐(香川県)に配流になります。
讃岐は、真言宗を広めた空海が誕生した善通寺のある地ですが、仁和二(886)年に菅原道真が守に任じられた時の詩に、「…更に妬む、他人の左遷すと道(い)はむことを」と詠んだ、京の都から離れた地です。
天皇の配流という例を遡ると、天平宝字八(764)年に淳仁天皇が恵美押勝の乱で淡路に配流されて以来で、当代の人々にも崇徳院自身にも、予想を越える厳しい処置と見なされます。
しかし、戦いに敗北した武士達にはなお過酷な処罰が下されました。平忠正と息子達は六波羅近辺で、源為義と息子達は船岡山付近で、親族である平清盛や源義朝によって斬首されました。平安京周辺での処刑は前例のないことです。忠通の子の慈円はその史論「愚管抄」で、
〈鳥羽院うせさせ給ひて後、日本国の乱逆と云ふことは起こりて後、武者の世になりにけるなり〉
と記しています。つまり、貴族による平安時代が終わって武士の時代が始まる、まさに転換点が保元の乱でした。
武士の世へ。讃岐への配流とその後
崇徳院は、保元の乱の後、讃岐で8年を過ごした後に崩御して白峰陵に埋葬されました。享年は46歳です。
室町時代に編まれた第17番目の勅撰和歌集「風雅集」の「旅」には、讃岐の院を見舞いに訪れた歌人の寂然法師が詠んだ歌や、院自身が波路を隔てた彼方の都の知人に送って、
〈思ひやれ 都はるかに 沖つ波 立ち隔てたる 心細さを〉
と、讃岐での心細さを思いやってほしいと詠んだ歌もあります。なお同歌集では、後鳥羽院が承久の変の後に流罪となった隠岐島での和歌が続き、連想の糸が見えるようです。
歌人の西行も保元の乱以前から崇徳院に親しく関わっていましたが、家集「山家集」には、保元の乱直後の院出家への驚きと嘆きに始まり、讃岐で院に仕える女房と多くの和歌を往復して、院の心の内を思いやっています。女房からの返事の一首は、
〈かかりける 涙に沈む 身の憂さを 君ならでまた 誰か浮かべん〉
ともあり、配流による涙に沈む身の辛さをあなた以外の誰が救ってくれるでしょうかと、出家者の西行に後世を頼ろうという、院の心そのものを表しているように見えます。また、西行は院の崩御後に白峰陵を訪れ、
〈よしや君 昔の玉の 床とても かからん後は 何にかはせん〉
と、「玉の床(金殿玉楼)」で昔日の都での栄華を表し、それが夢のように消えた後の空しさを詠んでいます。
崇徳院の崩御後、生前に詠んだ長歌が遺言によって俊成に送られてもいます。そこでは、京の都を離れて予想外の讃岐に身を置く嘆きを述べ、都での雅びやかな日々を思い出しつつも、最後は仏の道に救われる期待を詠んでいます。
恋の歌に籠められた執念
これらの和歌と通底するのか否か、院の別の苛烈な面が「保元物語」等に語られています。それには、崇徳院が自身の後生菩提のために、華厳経・法華経などを含む五部大乗経を書写し、院と縁のある都近くに納めようとしたことが後白河天皇側から拒否されたため、その後の院は髪も梳かさず、爪も切らず天狗のようになって、「我が願いは、……日本国の大悪魔と成らん」と、自らの舌を噛み切った血で誓いを書き付けて海底に投げ込んだとあります。そして、このことによって、保元の乱に続く平治の乱や源平の騒乱は、崇徳院の怨霊が祟ったものと見なされることになったというのです。
その延長で「百人一首」の和歌を見ると、恋歌の下句で「われても末に逢はむとぞ思ふ」には、怨霊にも化すような強い意志を感じることもできます。
近世の上田秋成が著した「雨月物語」の冒頭の一話「白峰」では、崇徳院の墓所に詣でた西行が怨霊に化した崇徳院に会い、理不尽な敗北から生じた怨念が鎌倉時代始発まで重なる戦乱を起こしたという語りの物語になっています。
しかし、保元物語の成立時期が定かでなく、崇徳院怨霊説もいつから生じたかは不確かなことで、「百人一首」成立より時代的には下るかもしれません。ただ、崇徳院が政治的敗者に至った悲劇性は同時代から周知のことで、上皇の流罪とは正に後鳥羽院の先例と思われていたことも十分あり得ることです。
時代的には少し下りますが、「風雅集」で崇徳院と後鳥羽院の和歌が連続する部分があるとしましたが、同じことは、同集にもう1例あり、他にも第11番目の勅撰集「続古今集」に2例、第21番目の勅撰集「新続古今集」に1例見えます。
百人一首では、政治的敗者となった天皇の系譜として、陽成院・三条院を継ぎ、なお流罪にまで至った点で、後鳥羽院・順徳院に重なって繋がるのが崇徳院だと言うことができます。
百人一首全体を支える編者の思いは、後鳥羽院と順徳院の和歌に表された、現在を憂え昔を偲ぶ心だと筆者は考えますが、上の5人の院に冒頭の天智・持統天皇及び光孝天皇を加えて「百人一首」全体の骨組みになっているように思われます。
《参照文献》
百人一首の作者たち 目崎徳衛 著 (角川書店)
崇徳院怨霊の研究 山田雄司 著 (思文閣出版)
保元・平治の乱 元木泰雄 著 (角川ソフィア文庫)
古事談・保元物語 新編日本古典文学全集(小学館)
愚管抄 日本古典文学大系(岩波書店)