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三島由紀夫の残したものとは?~『憂国忌』


すっかり寒さが募ってまいりましたね。今日11月25日は、三島由紀夫が衝撃的な形でこの世を去った忌日です。作品にちなんで『憂国忌』と呼ばれています。小説、戯曲、映画…と多方面にわたり文筆活動を行ない、川端康成も認める才能の持ち主でしたから、45歳での早逝は惜しまれました。ここでは没後約半世紀の年月が流れた今、歌舞伎などの舞台作品を中心に、残した作品とその後の影響について振り返ってみましょう。


歌舞伎と三島由紀夫

三島由紀夫・本名平岡 公威(ひらおか きみたけ)は1925年に東京に生まれ、学習院中等科の頃から父方の祖母には歌舞伎へ、母方の祖母には能楽へと伝統芸能に親しんで育ちました。初めて見た歌舞伎にはとても不思議な魅力を感じたと語っています。三島は学習院から東京大学、大蔵省へと進みますが、入省から一年も経たないうちに大蔵省を退職し、中学生の頃から執筆していた文学の世界に身を置くようになります。歌舞伎作品を手掛けるようになったきっかけは、その頃の贔屓役者・六代目歌右衛門との対面によるものです。歌右衛門との出会いの後、「地獄変」、「鰯売恋曳網」、「熊野」、「芙蓉露大内実記」、「むすめごのみ帯取池」、「朝の躑躅」の5本が歌右衛門のために書き下ろされ、舞踊劇「艶競近松娘」、「室町反魂香」、当代坂東玉三郎を抜擢した「椿説弓張月」の計8本があります。「鰯売恋曳網」や「熊野」は再演が多い人気の演目ですので、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。歌舞伎作品の執筆最後となった「椿説弓張月」は、三島が運営に携わっていた国立劇場で初演されましたが、2012年には新橋演舞場で七之助の白縫姫により再演されたのが記憶に新しく、これからの再演が期待されますね。


「椿説弓張月」へのこだわり

最後の歌舞伎作品となった「椿説弓張月」は、三島にとって思い入れの強い作品であったようです。というのも、歌舞伎作品として国立劇場で上演された後に文楽作品として書き直ししているという経緯があるのです。三島にとって玉三郎は贔屓役者であり、その美貌と才能を認めていましたが、歌舞伎作品における表現に自らの求める理想とのギャップを感じていた…たおやかさより剛健さをもとめていた…と、上演後の対談記録に残されています。歌舞伎における自作の表現に限界を感じた三島は、文楽(人形浄瑠璃)に「弓張月」の可能性を見い出そうと書き直し始めましたが、上中下の三巻にわたる作品が未完の内に三島は最期を迎えることとなりました。国立劇場三周年記念として歌舞伎が上演された「椿説弓張月」は、三島の没後、国立劇場五周年記念として文楽の舞台が上演されています。


三島美学を引き継いだのは…

三島はほかにも戯曲や映画作品を多く手掛けています。映画では「潮騒」や「金閣寺」などが良く知られていますね。戯曲では「サド侯爵夫人」も人気のある作品です。「椿説弓張月」で抜擢された坂東玉三郎は、生前の三島に「君がやるべき作品…」と前置きして「サド侯爵夫人」への出演を示唆され、出来上がったばかりの本を贈呈されていたといいます(玉三郎談)。実際、没後しばらくの間をあけてではありますが、1983年に玉三郎による「サド侯爵夫人」の舞台が実現し、その後再演が続いています。玉三郎にとって確かに「やるべき作品」となったのですね。また、「椿説弓張月」を観ていた写真家・篠山紀信と玉三郎は、その後写真集でコラボレーションを続けていることも付け加えておきますね。関係者による記録写真以外をなかなか受け入れなかった歌舞伎座と篠山紀信との出会いも、形を変えた三島の形見と言えるのではないでしょうか。このほかにも「黒蜥蜴」や「鹿鳴館」は当時映像作品でしたが、その後舞台で多くの役者さんにより上演されています。活字で、映像で、舞台で…三島美学はこれからも継承されていくことでしょう。



出典

三島由紀夫文学館ホームページ

松竹 歌舞伎人(かぶきびと)ホームページ

坂東玉三郎 すべては舞台の美のために(和樂ムック 小学館)

坂東玉三郎 歌舞伎座立女形への径 中川右介著(幻冬舎)

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