9月もそろそろ終わりを迎えようとしています。確実に季節は移ろい、息苦しいほどの暑さ続いた夏も、もう過去のこと。これから本格的な秋に突入しますが、秋は特に自然の風物に心ひかれる季節です。中でも山々だけでなく、街のあちこちが錦絵のような色彩に彩られる紅葉(もみじ、もみぢ)のあざやかさと美しさは格別です。
春の花とともに紅葉は、詩歌に詠まれてきた題材のもっとも代表的な題材です。今回はそんな紅葉に関する詩歌を紹介しましょう。
秋に色づく木の葉の美しさ
♪秋の夕日に照る山もみじ
♪濃いも薄いも数ある中に
♪松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は
♪山のふもとの裾模樣(すそもよう)
ご存じの通り、誰もが歌ったことのある唱歌「紅葉」の一節です。あらためて歌詞を読んでみると、言葉のひとつひとつから様々な色合いが連想されます。メロディもさることながら、美しい歌詞ですね。
「もみじ・もみぢ」は、秋に色づいた木の葉のこと。もとは動詞「もみつ」の名詞形です。
古代日本の詩歌では紅葉は『万葉集』の昔から、春の花とのコントラストが特に重要なテーマとなっていました。これは中国の漢詩の影響です。表が紅、裏が青の色のコントラストの強い配色を「紅葉襲(もみじがさね)」などとも言います。
〈春さり来れば…花も咲けれど…秋山の木の葉を見ては…〉額田王
〈春へには花かざし持ち 秋たてば黄葉かざせり…〉柿本人麻呂
春には万物をことほぐように桜が咲き、秋には移ろう時の象徴として、華やかであるけれど、どこかものさびしい紅葉があるのです。『源氏物語』にも紫の上と秋好中宮が、競うように春と秋を読み込んだ書簡を応酬する場面が描かれます。また夏に変色して散ってしまう葉のことを病葉(わくらば)などという一方で、若い女性が赤面することを「紅葉を散らす」などということもあります。
楓葉のあざやかな赤やいちょうの濃い黄色などが絢爛な色彩は、ときに錦の織物にもたとえられます。そして紅葉の名所として歌に詠み込まれてきたのはなんといっても奈良県生駒郡の龍田山(たつたやま)、または龍田川です。
〈見る人もなくてちりぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり〉紀貫之
〈龍田山紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ〉古今集
〈年ごとにもみぢ葉流す龍田川みなとや秋のとまりなるらむ〉紀貫之
最初の貫之歌は、見る人もいない山奥で錦を織りなすように紅葉が散っていくという、幻のような美しいイメージです。最後の貫之歌は、紅葉の流れる龍田山は秋の季節の最終地点なのだろうと詠っています。
和歌では、寂しさをにじませながらもどちらかというとゴージャスな美しさを詠んだものが多いのですが、俳句ではちょっと詠みどころが異なっています。
〈障子しめて四方(よも)の紅葉を感じをり〉星野立子
〈何も居ぬ紅葉おのれをにぎやかに〉飯田龍太
〈考へることやめし樹よ紅葉して〉中尾寿美子
〈心にもある北側の薄紅葉〉清水径子
〈黄葉を踏む明るさが靴底に〉内藤吐天
紅葉のテーマに限ったことではありませんが、俳句はその詩形の短さゆえに「そこにないものを想像する」という独特の視点を取ることが少なくないようです。
秋の都市をいろどる銀杏黄葉
紅葉狩りなどといって山野の紅葉を散策することとも趣があります。しかしその一方、都市で見る紅葉の代表格として晩秋の銀杏黄葉(いちょうもみじ)があります。「荘厳」という言葉がぴったりです。
〈とある日の銀杏黄葉の遠眺め〉久保田万太郎
〈画展よりつづく光の銀杏の黄〉渡辺桂子
この二つの句は都市で見る紅葉ですね。
特に後者の句は、東京・上野などでは秋に開かれる大きな絵画の公募展を切り口に、展覧会に飾られた絵画の画面からまるで流れ出るように、都市に黄色の波が続くようだと詠んでいます。山里の紅葉とはまた違う美しさです。
季語になっていませんが、匂いが気になるものの、銀杏拾いもまた楽しいものです。
〈銀杏の落ちては空を深くせり〉栗原米作
〈切株やあるくぎんなんぎんのよる〉加藤郁乎
郁乎の句は、言葉遊びのようで、結句を「銀杏銀の夜」と解釈してもいいのですが、「ある句吟難吟の夜」という詩歌を歩きながらひねり出そうとしている様子を詠ったものという解釈もあります。
── 観光地に紅葉狩りに出かけられなかったら、近所を散歩して高い秋空に映える銀杏の木を眺めるのもよいでしょう。錦絵のような美しさに心打たれたら、ぜひ一句ひねってみてはいかがでしょうか。