今週末の土曜日(3月11日)には梅の景勝地であり、「日本三名園」のひとつである「偕楽園」(水戸)で、梅まつりの最大イベント「夜梅祭」が開催されますね。
梅の見頃が過ぎれば、いよいよ桜の季節です。
日本では「花といったら桜のこと」とも言われますが、必ずしもそうではありません。
花の美しい季節を迎えたいま、あらためて「はな」のイメージを探ってみましょう。
花といわばみな桜なり
まず、季節の展開が花のさかりの移り変わりとして捉えられました。
花のない冬は雪が花の代わりです。
特に古典的な詩歌においては「花といわばみな桜なり」という言葉もあり、桜は花の代表ではあるのですが、春の花や四季の花一般を指すことも多く、四季の花としては梅、桜、藤、萩、女郎花などが詩歌で多く詠われます。
花に見立てて雪、霜、月光などのことを表現することもあります。
詩歌では梅は香りや鶯、桜はちりぎわ、女郎花は美人の形容を、というふうにパターン化してしまっている部分もありますが、それに対して清少納言は梨などの普段あまり注目されない花についてもその美しさを記しています。
散る花と人の心
花は、単に植物の花を指すだけでなく、一般的にものごとがさかんな様子、はなやかさ、あでやかさなどの形容にも使われます。
また、女性の笑顔や女性そのものの形容にも使われます。「源氏物語」で、紫の上を桜に、玉鬘(たまかずら)を山吹に、明石の姫君を藤で表して「見つる花の顔ども」と表現しています(野分)。
散るさまが一番ドラマチックなのは、桜ですが、花は散るもの。
その様子は「うつろひ」「あだ」などと表現されて、人の心の移りやすさや誠実でないことをも表現することになりました。ひいては人の心のあてにできないことは「花の心」と表現されました。
〈色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける〉小野小町
ここでいう、「花の色」は恋心の象徴です。
その一方で、季節が巡れば同じように花が咲くことから、変わらぬことの形容としても使われました。
日本人と「花」という言葉
こうした「花」の用法は、主に平安時代の詩歌に見られるものですが、このほかにも「花を折る」「花を遣(や)る」は、着飾る、お洒落をする、といった意味にも使われました。
能では芸の最高の境地を「花」と表現することもあります。「秘すれば花なり秘せずは花なるべからず」という世阿弥の言葉は有名ですね。江戸時代には芸人へのご祝儀の意味もあったといいます。
「花の兄」(一年でもっとも先に咲くことから梅のこと)、「花の父母(ふぼ)」(花を養うことから雨や露のこと)、「花筏(はないかだ)」(水面に散った花びらをいかだに見立てた言葉)など派生語も非常にたくさんあります。
日本人は実に「花」に矛盾するかとも思える、たくさんのイメージを託してきたようです。