肉食が長く禁じられていた日本。
江戸時代までの食事は、米と魚、野菜が中心。天ぷらなど少数の料理を除けば、油脂すらほとんど使われていませんでした。
「獣肉を食べると身も心もけがれてしまう」と考える人が多かった日本ですが、
明治初期に肉食が「解禁」されると、比較的すぐに人びとは肉食を受け入れていくのです。
「牛肉」を題材に、近代ニッポンの黎明期と肉食の関係をひも解きます。
肉食禁止の時代、困ったのは誰?
江戸時代まで、日本では公には肉食を禁じられており、少数の例外を除いて人々は獣肉を口にすることはありませんでした。
「肉を食べたい」と思っても、食肉の流通そのものが限定されていたのです。
維新前夜にあたる1850年代、日本で牛肉が手に入らないことで悩んだのは、アメリカの初代駐日総領事タウンゼント・ハリス。
領事館としていた下田(現在の静岡県)のお寺で牛を飼育し、周囲の住民と大論争になったと伝えられています。
「日本で手に入る、魚などの食材を食べればいいのに、どうして?」
現代の私たちは、ついそう思ってしまいます。
しかし当時は、近代化もグローバル化もまだまだ始まったばかりの時代。
アメリカ人にとっても日本人にとっても、「食べ慣れない食材」「見慣れない習慣」は、受け入れがたいものだったようです。
「お上」が推進した、明治時代の肉食
近代国家の仲間入り、「文明人」の仲間入りをするために、洋風化を進めた明治政府。
明治天皇をはじめ、皇后や女官たちの日常も、「洋装」「洋食」に切り替わります。
肉食が解禁された1872年には、これを憂えた行者10数名が皇居に乱入する事件もあったのだとか。
精進潔斎を旨とする行者にとって、肉食は「許せない行為」だったのです。
庶民が「牛肉食」を支持した理由とは?
肉食が禁じられていた江戸時代の日本でも、「薬喰い」などと称し、体力回復などの目的で獣肉を食べる習慣はありました。
一部の地方では、イノシシ肉(牡丹)になぞらえて牛肉を「黒牡丹」「冬牡丹」などと呼び、賞味していたのだそうです。
この「牡丹鍋」のイノシシ肉を牛肉に置きかえることから、明治の牛肉食が始まりました。
「牛鍋」「すき焼き」の登場です。
1860年代に長崎に登場した日本で初めての洋食店のメニューには、カレーやコーヒーとともに「ビフテキ」の名前が。
この頃になると、日本各地に「牛解場」(処理場)が開設され、急速に増える牛肉需要に応えていたといいます。
1880年代になると、「牛飯屋」が出現。現在の「牛丼」のルーツにあたる食べ物です。
細切れの牛肉とネギを煮込み、どんぶり飯にかけたもので、「牛めしブッカケ」という別名でも呼ばれていました。
この「牛飯」が、安くてお腹がいっぱいになるということで、人びとの支持を集めていくのです。
肉食の普及には、官公庁や大学の食堂、鉄道の食堂車が洋食を採用したことが大きかった、といわれます。
それももちろん真実ですが、「牛鍋」「牛飯」といった親しみやすい味付けの料理が登場し、それを庶民が歓迎したことが、現代につながる「牛肉食」文化につながっているのではないか、とも思えます。
「熟成肉」ブーム、立ち食いステーキ店の流行など、ニッポンの牛肉食文化は今や百花繚乱。
明治時代に生きた人びとの戸惑いや喜びを想像しつつ、美味しいお肉をいただきましょう!
参考:岡田哲「明治洋食事始め とんかつの誕生」(講談社学術文庫)