
日刊スポーツ評論家の永島昭浩氏(61)が10日、81歳で亡くなった釜本邦茂さんを悼んだ。2人はJリーグフィーバーに沸いた93年、G大阪のスター選手とスター監督という関係。日本のエースストライカーの系譜を持つ師弟だったが、当時の関係は1年で崩れた。永島氏だからこそ口にできる釜本さんへの思いが今、初めて語られた。
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「訃報は今朝、聞きました。日本サッカー界に大きな歴史をつくられた方で、本当に残念です。すごくショックです。心からお悔やみを申し上げます」
数年前から体調を崩したと聞いていた永島氏は、お見舞いのタイミングを計っていたが、間に合わなかった。
“釜本監督とエース永島”の師弟関係は、G大阪の前身松下電器時代を含めれば4年近くになるが、Jリーグでは93年の元年1年で終わった。
永島氏は32試合12得点と結果を残すも、G大阪は低迷。当時の日刊スポーツには、途中交代を命じられた永島氏が試合後「僕を代えて、勝ち負けは監督が責任を取ること」と、釜本さんを批判。後に永島氏は謝罪したが、2人の距離は開いていった。
メディアから当時「仲が悪い」と報じられ、その事実について永島氏は今も否定しない。94年1月、Jリーグのライバル清水へ完全移籍。今では大黒柱の移籍さえ日常的だが、当時は衝撃的だった。
「自分自身のはがゆさというか(G大阪で)結果を出せなかった。監督、選手というそれぞれの立場もあった。でも僕の人間としての器の小ささ、至らなさということ」
「自分には忍耐力が足りなかった。釜本さんは厳しい世界で戦ってきた人なので、求めることが非常に高いレベルで、そういう意味では自分の実力不足。今思うと、もう少し長く指導していただきたかった」
もちろん、清水のオファーは純粋に永島氏を評価したもので、その移籍の決断に今も「間違いはなかった」と言い切る。
一方、G大阪の関係者からは「あの時、本当に若気の至りだった」と指摘されることもあり、永島氏は素直に受け止める。
もう少し大人だったら清水への移籍はなかったかと問われると、客観的には「(なかったと)言えるかもしれない」。
「大事なJリーグ元年が終わって、あのタイミングで僕が移籍したということは、着眼大局、着手小局(広い視野で物事をとらえ、細部に目を配って実践する意)の部分が、欠けていた時期でもあった」
清水移籍が当時、一部から批判された永島氏だが、釜本さんからは背中を押されたという。
「釜本さんは、当時から世界を分かっていて『仕方ないよ』と言ってくれた。自分が精進して、地に足を着けて現役をやるというスタートラインになった。釜本さんには本当に感謝しています」
引退後は釜本さんとは再び交流が始まり、ゴルフに何度も出かけた。その時に気付いた。釜本さんの足首には、何歳になってもテーピングが施されていた。
「ずっと『オレには足首の靱帯(じんたい)がない』という話だった。『ストライカーは、相手のタックルを軸足(足首)で止めないとだめ』。『膝と腰はけがしたらだめやけど、足首の靱帯は切れても仕方ない』と。靱帯がなくてもプレーしていたと思うと、すごいなあと改めて思いました」
釜本さんから受け継いだ精神は、サッカー界のOBとして各所へ還元をしたいと思っている。
◆永島昭浩(ながしま・あきひろ)1964年(昭39)4月9日、神戸市生まれ。兵庫・御影工高から松下電器(現G大阪)入り。G大阪、94年清水、阪神・淡路大震災の起きた95年途中に故郷の神戸(当時JFL)へ移籍。J1通算165試合61得点、日本代表4試合無得点。引退の翌01年以降は日本協会アンバサダー、国際委員会委員などを歴任し、現在は大阪サッカー協会会長。長女優美さんは元フジテレビアナウンサーで現在フリーキャスターで活躍中。182センチ。