
日本サッカー史上最高のストライカー、釜本邦茂さんが10日午前4時4分、大阪市内の病院で肺炎のため亡くなった。81歳だった。突然の訃報に、多くのサッカー関係者から悼む声が挙がっている。
読売クラブ(現東京V)時代に「天才少年」「テクニシャン」などと呼ばれた元日本代表FW戸塚哲也さん(64)には、日本リーグでの思い出がよみがえった。1979年(昭54)に当時最年少の18歳1日でデビュー。日本リーグで釜本さん率いるヤンマーと何度も対戦している。
「本当に岩のように動かないイメージ。何回かコンタクトがあったんですけど、全然動かない。ビクともしない。本当にすごいなっていうのが。まだ僕は18歳でしたけど、ガマさんはもうプレーイングマネジャーみたいな感じでやっていた頃でした。すごかったですね」
日本サッカーの中心には釜本がいて、ヤンマーがいた。サッカーに熱中した少年たちにとっては憧れの的だった。
「やっぱりヤンマー時代にガマさんとネルソン吉村さん、その2人のラインがかっこよくて。それを少年時代に見ていた僕が、18歳でデビューするようになって、一緒に敵としてプレーすることになるなんて思ってもみなかった。本当にうれしかったです」
17歳差に加え、釜本さんは大阪在住ということもあり遠い存在だった。だが戸塚さんも引退して子供のサッカー教室や練習会などで一緒になる機会が増え、「やっと普通に話せるようになった」と言う。
戸塚さんは20年ほど前、サッカー雑誌の連載企画として、同じ時代に日本代表でプレーしていた金田喜稔さん、木村和司さん、川勝良一さんと一緒にサッカーを語るコーナーを持っていた。自分たちで企画やテーマを考えるというものだった。その時にゲストとして釜本さんに“ダメ元”で取材オファーを出したという。
「ガマさん、こんなのに来てくれないよ」。そんな予想に反し、大阪から新幹線に乗って新横浜までやってきたという。
「おまえらのことはちゃんと分かっている、おまえらじゃなかったらこの取材を受けていなかったって言われたのはうれしかった。ずっと見ていたよ、ちゃんとおまえらを(選手として)認めてるというようなことを行ってくれたのが一番うれしかったし、一番の思い出ですね。本当にガマさんが何をしゃべるのかなって聞きたかったですから。我々はガマさんをリスペクトしているから、本当にひと言ひと言が重くて。僕らが代表の時の森孝慈監督からもいろいろと聞いていましたし」
戸塚さんは現在、岐阜県各務ケ原市で「湯麺戸塚(たんめんとつか)」を経営する傍ら、地元テレビで解説やFC岐阜の応援番組に出たりとサッカー関連の仕事もこなしている。
「ニュースでガマさんが亡くなったことを知り、驚いていました。4、5年前から体調が悪いというのは知っていました。(イベントの)練習会にも顔を出せないとかで心配していました。まだ81歳、早いですし、本当にびっくりしました。残念です」
そう話し、日本サッカー界が誇る巨星への追悼の思いを深めた。