
<日本生命セ・パ交流戦:巨人2-0楽天>◇7日◇東京ドーム
巨人が長嶋茂雄終身名誉監督が89歳で逝去後、初の白星を挙げた。前日まで今季ワースト5連敗を喫していたが、ミスターが愛した本拠地で弔い星となった。
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長嶋さんと阿部監督の野球人生は「すれ違い」になる可能性もあった。
2000年(平12)、ダイエー王監督とのON対決を制した長嶋さんは、日本一を花道に勇退することも考えていた。しかし、渡辺恒雄オーナー(当時)から「何連覇もできるチームをつくってほしい」と強く慰留され、受け入れた。
この時点でおそらく既に、監督はあと1年と考えていたのではないか。「野手は出来上がった。あとはバッテリー」と話し、ドラフト1位・阿部の英才教育になりふり構わず着手した。
キャンプから1軍に帯同し、工藤、上原といったエースたちの球を毎日受けさせた。第1次政権下で同じように大卒新人で抜てきした山倉和博氏を臨時コーチに呼び、捕手のイロハを学ばせた。山倉氏を育てた時のように、阿部に配球などのリポートを書かせ、助言を送る「交換日記作戦」も敢行した。
阪神との開幕戦に阿部を「8番捕手」で先発起用。新人捕手の開幕スタメンは1978年(昭53)の山倉以来だった。どんなに打たれても、ミスをしても長嶋さんは阿部を2軍に落とさなかった。投手陣の間で、ベテランの村田真一や松井と同期の村田善則と組みたいという声が上がっても、阿部を使い続けた。この年巨人は、優勝したヤクルトに3ゲーム差の2位で、勝ち星差はわずかに1つ。目先の勝利を優先していたら、結果はどうなっていたか。
阿部は140試合中、127試合に出場した。翌年には早くもゴールデングラブ賞とベストナインに選ばれ、大選手への道を歩み始めた。人の縁とは不思議なもの。渡辺オーナーの慰留で長嶋さんが翻意しなかったら、巨人の歴史は変わっていたかもしれない。【沢田啓太郎】