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山田久志氏「プロ野球の世界で長嶋さんと同じ舞台に立てたことは幸せ」長嶋茂雄さん悼む


元中日監督で阪急ブレーブスの投手だった山田久志氏が、肺炎で亡くなった長嶋茂雄さんを偲んでコメントしました。山田氏は「長嶋さんはいつも太陽のように輝いていた存在」と述べ、選手や監督として何度も対戦したエピソードを振り返りました。特に印象的だったのは1971年の日本シリーズでの対戦で、山田氏は9回に逆転された苦い思い出も語りました。また、長嶋氏との人間的な交流や、長嶋氏に投手コーチとして巨人から誘われたものの家庭の事情で断ったエピソードも紹介されました。山田氏は長嶋氏を「敵として見えないほど憧れの人だった」と追悼の思いを語りました。

山田久志氏(2023年撮影)

阪急ブレーブスで通算184勝を挙げた元中日監督・山田久志氏(76=日刊スポーツ評論家)が、6月3日に肺炎で亡くなった長嶋茂雄さんを悼んだ。

   ◇   ◇   ◇

山田氏 いつも太陽のようにまぶしかった。わたしにとって長嶋さんはそういう人でした。そこだけが輝きを放って、いつも球場という空間を支配している存在でした。選手同士として対戦したし、長嶋さんが監督、わたしが選手、あるいは監督と投手コーチという関係で、いろんな立場で戦いましたね。

交流戦がない時代で、セとパでリーグが違ったので、両者の対決はオープン戦、日本シリーズに限られた。

山田氏 長嶋さんは長打力もありましたが、基本的には中距離打者だったと思います。バットを短くもってね。少し前かがみになった構えは独特で、こちらはマウンドからストライクゾーンが狭く見えたものです。でも打席の長嶋さんはそれが広かったんでしょうね。悪球打ちの名手でもありましたね。

日本シリーズで長嶋と山田が初めて対戦したのは1971年(昭46)だ。3年目の山田が22勝(6敗)でエースにのし上がった年。1勝1敗で迎えた第3戦に先発した山田は8回まで2安打で抑えながら、9回に王貞治に逆転サヨナラ3ランを浴びたのは名勝負として語り草になっている。

山田氏 わたしは1-0で勝っていた9回1死から柴田さんに四球を出すんです。柳田さんが右飛でツーアウトになって「あと1人」までこぎつけた。その後、長嶋さんの打球がセンター前に抜けていった。ショートの阪本さんのグラブをかすめるかのようなボテボテの打球でした。あそこでつながれて2死一、三塁になった後、王さんにホームランを打たれるんです。わたしが鼻っ柱を折られた生涯忘れることのできない一戦でしたね。

「長嶋対山田」は71、72年の2年間で、通算成績は、12打数3安打1打点、0本塁打だった。ちなみに対王は23打数8安打、4本塁打、10打点。

山田氏 長嶋さんと何度も対戦しましたが、なぜか敵に見えないんですよ。だってあこがれの人でしたから、やっつけてやろうという気にならないんです。阪急は75年から3年連続日本一を果たしたんですが、その76、77年も、現役として長嶋監督だった巨人と対戦しました。

引退した山田氏は、99年に長嶋監督の巨人から投手コーチを打診されたが、夫人の体調が思わしくなかったので断りを入れた。

山田氏 家庭の事情で仕方がなかったのですが、その直後にロサンゼルスに滞在していた中日監督の星野さんから口説かれるんです。長嶋さんに断りを入れたので無理だといっても聞き入れてもらえず、すぐに日本に帰ってきて会うことになった。最終的に中日にお世話になったのですが、長嶋さんに不義理したのが心苦しかった。でも長嶋さんが電話で「山ちゃん、気にすることないからね」と気遣ってくれたのでホッとした覚えがあります。それに仰木監督のオリックスで投手コーチだった当時も、長嶋監督の巨人と対戦しましたね。名球会での思い出もたくさんあります。プロ野球の世界で長嶋さんと同じ舞台に立てたことは幸せでした。

【聞き手=寺尾博和】

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