
プロ野球の巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で亡くなった。89歳だった。
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「4番サード長嶋」は4失策から生まれた。高校(佐倉一=現佐倉)時代の長嶋さんは3年春まで「4番ショート」だった。入学時に170センチ未満だった身長は180センチ近くに伸び、大きくなった体を持て余した長嶋さんは、平凡なゴロをトンネルするなど、失策が目立つようになった。
1953年(昭28)6月14日。佐倉一、市川、県船橋の3校が集まり、変則ダブルヘッダーの練習試合が行われた。第1試合の県船橋戦で長嶋さんはなんと4失策。コンバートを考えていた当時の加藤哲夫監督は第2試合の市川戦のメンバー表に「4番サード長嶋」と記した。
長嶋さんは水を得た魚のように生き返った。失策が減っただけではなく、打撃も良くなり、夏の南関東大会1回戦での大宮県営球場での伝説のバックスクリーン弾につながる。高校時代唯一の公式戦本塁打は関係者の間で話題となり、6大学のスターからミスタープロ野球へ駆け上っていくきっかけとなった。
1982年(昭57)に発刊された佐倉高校創立80周年記念校史のなかで、長嶋さんはこう振り返っている。「サードという自分の性格にあった攻撃的なポジションにコンバートされたことが、今日の私があると思います。ショート、セカンドであったならば、また違った野球人生であったと思います」。