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【悼む】心底尊敬する「京都人」吉田義男さん「アンタの原稿には優しさがありましたな」


2023年9月3日、阪神タイガースの監督として球団初の日本一に導いた吉田義男さんが、脳梗塞により京都市で逝去されました。吉田さんは現役時代、華麗な守備で「今牛若丸」の異名を持ち、監督としては阪神を3度率いるなど、その功績は多岐にわたります。吉田さんの熱い阪神愛と「打倒巨人」の信念はファンに深く刻まれており、その死は多くの人々に惜しまれています。吉田さんが監督を務めた1997年には「85年の夢よ、再び」を掲げ、多くのファンがキャンプに詰めかけましたが、結果は振るわず、翌年には最下位に終わりました。これらの苦しいシーズンにも関わらず、報道陣に対しては常に優しさを持って接し、京都出身の記者にも親しみを持ったエピソードが残っており、多くの人に「尊敬する京都人」として心に刻まれています。

2023年9月、甲子園球場を訪れた吉田義男さん

阪神タイガースの監督として85年に球団史上初の日本一を達成した日刊スポーツ客員評論家の吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分、脳梗塞で亡くなった。91歳だった。京都市出身。通夜と葬儀・告別式は家族葬で行う。現役時代は華麗なフィールディングで「今牛若丸」と称され、引退後は阪神監督を球団最多の3度歴任。打倒巨人を生涯の信念とし、阪神を愛し続けた猛虎のレジェンドが天国に旅立った。

   ◇   ◇   ◇

3度目の監督に就任された97~98年の2年間、担当記者としてお世話になった。実は私は吉田監督と同じ京都市生まれ、しかも同じ誕生日(7月26日)。初めてあいさつした時のことは今も覚えている。「へぇー、そんなことあるんですか。実家は京都のどのへんですか? 高校は?」。難しい顔から一変、柔和な表情となって京都話に花が咲いた。

それ以来、同じ京都人ということもあって、いつも気にかけていただいた。翌年の初夏を迎える頃だった。「あんたの高校、負けてましたな」。高校野球の京都大会でわが母校は初戦敗退。初めてあいさつした時に話した、私の無名の母校の名前を、半年以上たってもちゃんと覚えてくださっていたことが驚きで、うれしかった。

97年の高知・安芸キャンプは「85年の夢よ、再び」を合言葉にファンが大挙押しかけた。開幕から甲子園も超満員。しかしシーズンに入ると後半失速して5位、翌年最下位で夢は幻に終わった。虎番キャップとして多くの負け原稿、厳しい論評を書いたが、1度たりとも怒られたことはなかった。退任の日、数々のご無礼を謝りに行ったら「それが記者の仕事でっせ。でもアンタの原稿には優しさがありましたな」と笑顔で返された。心底尊敬する「京都人」だった。合掌。【97~98年阪神担当=木崎輝三】

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