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【悼む】吉田義男さん「野球はここや!」と胸をたたき 2年目の桧山進次郎氏に厳しいカミナリ


プロ野球阪神タイガースの監督として、球団史上初の日本一を達成した吉田義男さんが、脳梗塞のため兵庫・西宮市の病院で死去しました。享年91。吉田さんの監督時代に阪神でプレーした桧山進次郎氏は、吉田さんが監督として選手たちに厳しくも大切な教えを伝えていたことを振り返ります。特に心に響いたエピソードとして、新庄剛志選手と共に連続ノーヒットの時にホテルの部屋に呼ばれ、「野球はここや!」と胸に手を当てて強い気持ちの大切さを叩き込まれたことを述べ、吉田さんのおかげで成長したと感謝しています。また、桧山氏にとって吉田さんは野球界の父親的存在であり、深い感謝とともにその死を悼んでいます。

吉田義男さん(2018年3月撮影)

プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分に兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。

   ◇   ◇   ◇

▽桧山進次郎氏(日刊スポーツ評論家) 吉田さんが3度目の監督に就任された97年は、レギュラーに定着し始めたころでした。開幕から4番を任せてもらいました。今も忘れられないのは2年目の98年5月、福井遠征の中日戦後のことです。ともに2試合連続チャンスで打てず、ノーヒットだった新庄と、ホテルの部屋に呼ばれました。「おまえら、野球ナメとる!」。カミナリです。激しくしかられました。吉田さんは自分の胸を2~3回たたいて言いました。「野球はここや! 結果出ず悔しくないのか! もっと気持ちを表に出せ!」と。

はっとしました。試合に出れる気の緩みがあったと思います。でも実際は、結果が出なくても僕たち2人を我慢して使い続けてくれていたのです。体は小さくても、激しい負けん気で阪神のショートを守り続けてこられた方。改めて勝負には強い気持ちが必要だと感じましたし、取り組みが変わるきっかけになりました。新庄はメジャーリーグに挑戦し、僕は2度のリーグ優勝を味わえるまでに成長できたのも、吉田さんのおかげだと感謝しています。

京都同郷です。野球をしていた父と吉田さんが知り合いで、幼い頃から良くしてもらっていました。小学生の時、父の仕事の関係で一緒に訪れていた広島に阪神も遠征中で、広島駅で吉田さんを通じて掛布さんのサインをもらったことは良い思い出です。引退後もいつも気にかけていただいて、野球界の父親的存在でした。ただただ寂しいです。ありがとうございました。

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