Road to Cooperstown~米野球殿堂への道~<中>
希代のヒットマン、イチロー。米国で3089安打を重ね、21日(日本時間22日)に日本人で初めて米国殿堂入りした。日米通算4367安打をマークしたイチローは、いかにしてメジャー史上初の日本人野手としての道を走り抜けたのか-。米国での足跡をたどる「Road to Cooperstown~米野球殿堂への道~」の第2回。(敬称略)
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デビューから3年連続で200安打をマークし、メジャーでも自らの足場をがっちりと固めたイチローは04年、野球選手として脂が乗り切った30歳で4年目のシーズンを迎えた。オリックス時代からスロースターターでもあり、開幕後の1カ月は打率3割9厘。5月に月間50安打を放ったものの、球宴までの前半戦は打率3割2分1厘と、これまでの実績からすると「ノーマル」な状態だった。
イチローは納得していなかった。その時点で日米通算2000安打に到達していたにもかかわらず、6月下旬、打撃フォームを改良した。
その際の変化を、イチローは「変えた」ではなく、「変わった」と表現した。
変化を恐れない姿勢は、現状維持を良しとせず、極限まで野球を追求し続けるイチローの原点だった。
その結果、常識を覆す驚異的なペースで安打を量産した。7月に51安打、8月は56安打、9月&10月に50安打と、球宴後は打率4割2分9厘と打ち続けた。10月2日には、ジョージ・シスラーが持っていた年間最多257安打を84年ぶりに更新。歴史的な偉業を「やはり小さいことを重ねるのが、とんでもないところに行くただ1つの道だと思う」とイチローならではの言葉で振り返り、最終的に262安打まで積み上げた。
メジャーで最高の打者となった一方、その後のイチローには苦悩の日々が待ち受けていた。メジャー記録の年間116勝を挙げた01年こそリーグ優勝決定シリーズまで進出したものの、マリナーズは深刻な低迷期を迎えていた。イチローが安打を打ち続けても、勝利には結びつかず、終盤戦は消化試合の日々が続いた。それでも、200安打が近づくたびに、日頃は見かけることの少ない日米報道陣から注目され、カメラに追われる時期が訪れる。チームの勝敗をよそに、個人記録だけにスポットが当てられる現実。イチローの眉間にしわが寄り、他人を寄せ付けないようなピリピリとした空気が漂い始めたのも、この頃だった。
苦悩を胸に秘めつつも、プロフェッショナルとして、常にグラウンドに立ち続けた。06年から5年連続で年間最多安打をマークし、10年にはメジャー記録となる10年連続200安打を達成した。「最初は屈辱から始まりましたから。でも、10年200安打を続けて、安打が出ないと“何で出ないんですか”という質問に変わった。そういう状況を作れたのはすごく良かったと。周りを変化させられたことに対しては、ちょっとした気持ち良さがあるとは言えるでしょうね」。だが、マ軍はこの年、08年に続き、年間101敗を喫し、最下位に沈んだ。イチローが214安打を放っても、生還できたのはわずか74回(得点)。チームは混迷状態だった。
野球人としての転機は、着実に迫っていた。37歳で迎えた11年、イチローは161試合に出場し、184安打、打率2割7分2厘に終わり、10年間継続してきた200安打、打率3割がついに途絶えた。マ軍はこの年も最下位。「孤高」とも言われたイチローは、新たな道を探りつつ、自らの内面と向き合っていた。【四竈衛】