国内外のサッカーを長年取材し、日本のサッカー記者の草分け的存在だった賀川浩(かがわ・ひろし)さんが5日午前、老衰のため神戸市の病院で死去した。99歳。神戸市出身。日本サッカー協会(JFA)相談役、川淵三郎氏(88)が追悼した。
僕にとって賀川さんの思い出といえば1962年12月13日の産経新聞のコラムだ(当時26歳)。三国対抗サッカーの真っ最中の12月11日、僕は日本代表の合宿を抜け出して大阪で結婚式を挙げ、その日の夕方の便で東京に戻った。脊椎分離でB代表に落ちていた僕は、翌日のディナモ・モスクワ戦でなんとしても活躍したかった。試合は2-2で引き分けに終わったが、前半44分にゴールを決めた。
試合後に賀川さんに「花嫁にいいお土産ができましたね」と言われ、「ああ、こういうときはそういう発言をすればいいのか」と教えられた記憶がある。当時、新聞に戦評は出てもコラムが載ることは少なかったのだが、翌日の産経新聞には僕のことを書いた賀川さんの記事が掲載され、それがとてもうれしかった。
賀川さんはとても温厚な方で穏やかに取材対象者に話しかける、当時としては稀な記者だった。選手の心情をよく理解されていたのだと思う。厳しい記事も書かれたと思うが、僕の長いサッカー人生の中で賀川さんの記事で不快になったことは一度もない。サッカーを良くしようという思いが第一義にあった。サッカーへの愛情に満ちた、日本を代表するサッカージャーナリスト、それが賀川さんだった。
賀川さんに心からの哀悼の意を表します。
賀川さんは1952年に産経新聞社に入社。サンケイスポーツ(大阪)で編集局長などを歴任し、定年退職後にフリーとなった。日本サッカー発展への功績が認められて2010年に日本サッカー殿堂入り。15年には国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を日本人で初受賞した。W杯は14年ブラジル大会まで計10度取材した。